運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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旅の衣・後編 6

現代は不安だらけであり、心配の上に、訳の分からぬ心配が重なる。
 ゆえに保障を求め、安心と安定を求める気持ちが貪欲になる。死亡保険の流行はそのためだろう。明日に起こるかも知れない不幸や災難を恐れ、不安に戦
(おのの)くのが、また現代人の人情なのだろう。

 だが、不安や将来の保障は、よく考えれば、虚しい「心の迷い」と言えよう。
 こうした不安や将来への保障を求める心は、いったい何処から起こるのか。
 それは大半の人が、今日一日を懸命に生きず、今日遣らなければならないことを明日に先送りして「明日があるさ」などと高を括
(くく)り、今日を生きていないからである。その一方で、訳の分らぬ強迫観念に責め立てられているからである。
 単直に言えば、死を恐れているからであろう。


●幸福と不幸

 なぜ私が尖兵(せんぺい)として、噛(か)ませ犬になったのか。その経緯を話してみたい。
 こういう羽目になったのも、もとはといえば金田亮燕に、理科Iの地学の範囲だったと思うが、「モホロヴィチッチ不連続面という地殻とマントルの境界面をさす部分」
【註】ユーゴスラヴィアの地震学者モホロヴィチッチが1909年、バルカン地震で発見した)のこと教えたことがあった。これは、一般には「モホ面」と知られる。
 これを亮燕に、“ホモロヴィチッチ不連続面”と、揶揄
(からか)い半分で教えたことが原因した。したがって野郎は、モホ面を「ホモ面」と覚えてしまったのである。別に悪気があって野郎を籠絡(ろうらく)した訳ではないが、それが結果的にそうなったのは事実だった。やつは故意に丸め込まれたと思い込んだのである。
 その後の反省として、深く感得したのは、揶揄は怨みの元兇となるという教訓だった。ほどほどを過ぎれば怨みを買うことがある。
 しかし考えれば、モホロヴィチッチを“ホモロヴィチッチ”と記憶して、なぜ悪いのだろう。モホとホモの順序の、僅か二字の違いである。
 声を大にして「われに罪無し」と言いたかった。
 一番罪深いのは、ユーゴスラビアの地震学者の紛らわしい大先生の名前にあるのではないか!
 われに罪無し。

 モホとホモの順序を間違えて覚えしまった、野郎の高校での理科Iの授業である。
 こいつが担当教師から、見事に当てられた。
 「次は金田に答えてもらおう。地震波の速さで、ある面で急変する箇所がある。その面を何というか?」と野郎が指名されたのである。
 野郎は胸を張り立ち上がって、私が教えた通り、「ホモロヴィチッチ不連続面です、つまりホモ面です」と答えて爆笑され、大恥じをかいたことがあった。同じクラスに、オランウータンこと萱野雅代がいた。
 亮燕は雅代に気があり、恋慕の気持ちを抱いていた。しかし全員に哄笑されて、彼女も、亮燕を「なんてバカなの、最低」と軽蔑してしまった。

 こいつは前にも、炭素同化作用の一形式である植物の光のエネルギーで吸収した二酸化炭素と水から澱粉や糖などの有機化合物を合成することを光合成というのだが、この光合成を「ひかり‐ごうせい」と読んで、以前にも恥をかいていた。
 更にである。地理の事業で、北海道を「きた‐かいどう」と読んで、哄笑
(こうしょう)を買った。
 しかし、この野郎の馬鹿はこれで打ち止めでない。
 社会の地理の授業に悪夢が遣って来た。中部アメリカのメキシコ南東部、メキシコ湾に突出する半島にユカタン半島がある。この半島名を奴は指名されたとき「ユカちゃん」半島と答えたのである。クラスの爆笑を買ったことは想像に難くない。
 寺のバカ息子は、これでは「有難いお経」をまともに読めない筈である。読経出来るレパートリーが少ないのは、この辺から来ているのであろう。幸せな奴という他ない。あるいは恍惚
(こうこつ)な奴というべきか。
 野郎は雅代から軽蔑されただけでなく、完全に嫌われたのである。そして、ついに捨てられた。
 以後、無視されて相手にされなくなった。それ以来、私を恨んでいた。憎々しく思っていた。爾来、反撃の機会を窺っていたのである。しかし、思えば、ユカタン半島を、野郎が「ユカちゃん半島」と答えたのは、われに罪無しと言いたい。またホモロヴィチッチと答えた、モホロヴィチッチ大先生とも無関係である。
 もし、モホロヴィチッチ大先生がこの場に居られたら、おそらく「われに罪無し」と言われるだろう。
 総ては亮燕の馬鹿から始まったことであった。

 人に恨まれ、憎まれるという心の蟠
(わだかま)りも、現象界では作用と反作用から起こる。またその作用に対して、反作用が反映され、現象として顕われてくる。私はその禁を冒した訳だ。
 しかし、最もややこしいのは、モホロヴィチッチ大先生自身に、問題があるのではないか。その名前の、何分の一かの責任があるのではないか。われに罪無し……。声を大にて叫びたい!
 いっそのこと、覚え易いように「アンドリア・ホモロヴィチッチ」と改名したらどうか。そしたら誰からも親しまれよう。おそらく亮燕からは慕われたであろう。ホモロヴィチッチ大先生と。
 どうでしょう、大先生。「モ」と「ホ」を入れ替えたら、どうでしょうか。私からの提案です。
 特に日本人からは大受けしたかも知れない。亮燕のように理科Iで、赤点をとるバカも少しは減ろう。


 ─────賭けは、誰が落すかの賭けで、まずジャンケンで尖兵
(せんぺい)を決定する。
 これに負けて、私が一番手の尖兵となった。
 更に恨みを買われていた。その恨みがこのときに出て、「行け!」となったのである。腹には、私に恥をかかせる魂胆があった。
 そして最も望ましい構図は、私が、いま噂の美人の誉れが高い「文吉ねえさん」に振られて、大恥じをかく姿である。その時の間抜け面である。それを密かに期待していた。
 特に亮燕に至っては、雅代から捨てられた恨みがあった。だが雅代から捨てられたのは私の責任でない。しかし野郎は、私に対して「怨み骨髄に徹す」だった。

 この時のことである。
 亮燕が私をバーの入口まで連れて行き、翔太はドアを素早く開け、私を中に押し込んで、ドアをパタンと占めてしまった。小心者の哀れな仔羊
(こひつじ)は、ただ押し出されて入り、店の中で右往左往した。そこで進退窮まった。
 それは文香さんが入って、5分ほど経ってからだった。
 押し込まれると、店のバーテンから「高校生だろう。駄目だよ」と言われたのだが、文香さんが「まあ、いいじゃないの」と、あたかも身分の高い皇女が“苦しゅうない、近う寄れ”というふうに手招きしてくれ、私は下郎のようにおずおずと進み出て、横に坐らせてくれた。そのときいい香りがした。
 私は手招きされるままに、美人に接近して、緊張のあまりにカチカチ・コチコチだった。

 「なにしに来たの?」
 こう訊かれて完全に上がり、貌は極端に赧
(あか)らめているであろうことがわかった。鏡を見たら、熟れたトマトのように真っ赤になっているかも知れない。
 「あのッ……。噛ませ犬なんです……」しどろもどろ切り出した。
 そしたら文香さんが突然噴き出してしまったのである。
 「ぼく、おもしろいわね。だれを噛むの?」
 「それはですね、ジャンケンで負けて、無理矢理、噛ませ犬を遣らされているのです」
 「きみ、ジョークがお得意ね」
 「そうでしょうか、なにか拙
(まず)いこと言いましたか?」
 「いいえ」
 「じゃあ、お察ししていただければ……」
 「まあ、可哀想ね。それで、何に噛み付くの?」
 「できれば、お姉さんにお近付きさせていただいで、懇
(ねんご)ろになって頂ければと思っています」
 「駄目と言ったら?」
 「ワル仲間に賭け金、全部巻き上げられます」
 「それは可哀想ね」
 「ぼくは哀れな迷える仔羊なんです、お察し下さい」
 「じゃあ、ぼく。賭け金、取り返して上げましょうか?」
 文香さんは突然おかしなことをいいだした。

 「そうしていただければ、噛み付きに来た甲斐があります」
 「ぼくって、おもしろいのね。お近付き、受けてもいいわよ。ねえ、バーテンさん。このぼくに、何か作ってあげて」
 「いいんですか、文吉ねえさん。未成年ですよ」
 「あのッ……、ぼくは首から上は、確かに未成年ですが、首から下は立派な成人です。皮なんて、被っていません」こういった私はカチカチ・コチコチだった。固まり過ぎて勃起しそうだった。
 「ぼくって、ユーモアあるのね。気に入ったわ」
 「でも、カチカチ・コチコチなんです」
 「そんなに緊張しなくてもいいのよ」
 「そうですか、しかし緊張し過ぎて漏れそうです」
 文香さんは、カウンターの前に置かれた何か知らないシェイクされたカクテルを「さあ、どうぞ」といって薦めてくれた。緑系の色である。底にはチェリーが沈んでいた。
 私は、まず口に付けてみた。甘口で意外に飲み易い。
 「それ、青い珊瑚礁と言うのよ。ペパーミントが入って、なかなかいいでしょ?」
 「はい」
 甘口だったのが、飲み易い。何杯でもいけそうだった。
 そのときに文香さんと視線がバッタリ合った。その表情に、ぞくっとする美しさがあった。
 心の中で《美しかァ……》と博多弁の悲鳴を上げていた。
 文香さんに蠱惑されたのである。ここからが、私の熱病のはじまりだった。彼女の表情に誘い込むような、何かがあったのである。
 魅了されたといってもよかった。もう魅入られてしまっていた。100%完全蠱惑
(こわく)であった。
 しかし、この間の繕いが難しく、まず残りを一気に呷
(あお)った。甘くて、いける味である。
 「もう一杯、どう?」
 次を薦めてくれた。こうして二杯が三杯になり、それが連鎖していった。
 そして何杯か飲んだあと、すっかりいい気持ちになって、酒にも文香さんにも完全の呑まれていた。何しろアルコール度数は35%以上もある。
 しかし、ここまでは蛮勇でなかった。それなりに自制心を持っていた。

 ところが、それからがいけなかった。
 飲まされて呑まれ、小心者は少しばかり大胆になった。すっかり酔っていた。自制心も失った。文香さんの妖艶さ蠱惑されて、脳は灼
(や)かれ、気付いたときには焔(ほのお)となって燃え上がっていた。
 その燃え盛りが、更に大胆さを煽った。彼女の肩に手を掛け、抱き寄せるふうになり、やがてその手は下に移動していた。
 ほっそりとした貌に似合わず、豊かな尻であった。その密かな愉しみを、文香さんは赦してくれていたのである。しかし此処までであった。

 すっかり出来上がったところで、「さあ、ぼく。掛金、取り返しにいくぞ!」と発破をかけられた。
 店を出るとき、勘定は文香さんが済ませてくれ、おまけに腕まで組んでくれた。これは完全に遊ばれている構図だが、それを微塵も感じさせずに、自然に装ってくれたのが、文香さんの心遣いであったのだろう。
 だが、すっかりいい気になって、有頂天に舞い上がってしまった。
 怕いものである、有頂天というものが……。
 人間はいい気になって、人生の有頂天の策に懸かる。それで人生をしくじる。
 店を出たとき、近くで私の出て来るのを俟っていた悪童二匹が、目を円くして「えッ?ウソだろう!」と驚きの貌になっていた。野郎どもは、わが眼を疑っていたのである。思い知ったか、亮燕め。たわけ。
 掛金は取り返され、戦利品は文香さんを鹵獲
(ろかく)したが、それから先がいけなかった。このときから私の病気は、恋煩いで、ますます重態化していった。蠱惑の結果、熱病は烈しくなる一方だった。これが反作用だったであろうか。


 ─────それから何日か経ってのことである。この日、姉のところに別の女性が訪問していた。このときまで文香さんと、姉が高校・大学と同校の同級生で、親友のような関係とは知らなかった。
 また源氏名・文吉と文香さんが、同一人物であるとは思ってもみなかった。
 このとき、女性は私服であったが、まさか文香さんとは気付かなかった。昼と夜は同一人物でも違って見えるのである。
 しかし文香さんは、最初から私が誰であるか知っていたのである。総てお見通しであった。

 だが間抜けな仔羊は、高嶺の花に、手の届かぬ寂寥感を抱き、恋煩いで臥
(ふ)せっていた。立っても坐ってもどうにもならぬ。文香さんの幻が、消えては顕われる。とにかく切なかった。哀れだった。
 では、どうするのか。ごろりと寝る以外ない。
 一夜の夢が肉を削っていた。重苦しいような切ないような、何かが蝕み始めていた。ついに狂ったか。
 それもよかろうというと思う。
 溜め息をつきながら、愧
(はじ)多き生を浪費していた。
 これは真の姿でないとは言わない。真の姿かも知れない。よくよく腐ったものである。愛欲に目が眩んだ煩悩の徒であった。腐れ野郎である。助平な怠け者であった。このときばかりは姉からも放置されていた。好きに遣れと放置されていた。放置された粗大ゴミであった。
 人間の肉体は心の変化に躍らされる。肉体が脆
(もろ)いからこそ、心に躍らされるのである。その躍らされる中に魂の輪廻がある。躍り、狂えば、魂もその輪の中で永遠に躍り狂う。それが終わりなき迷いを生じさせるのだろう。何と言う羽目になったものだ。

 「なんば、いつまで寝とるとか!」姉の叱咤一喝である。
 私の体たらくに怒り心頭したのだろう。そのとき一人の女性が居た。
 「あッ!」小さな悲鳴が口を衝
(つ)いた。
 「ねえ、ぼく。わたし、覚えている?」その聲
(こえ)には秘密がたたえられていた。
 彼女の双眸
(そうぼう)に、喜びが溢れていた。猫を思わせる双眸だった。
 否、その喜びを含む双眸は、凄艶
(せいえん)な感じさえした。自らの艶やかさを、私に験(ため)しているよな喜びがあった。生け捕られた鼠が、猫に手玉に取られてじゃらされているのである。
 「あわあわあわ……」驚愕を通り越して、言葉にならなかった。
 なんとも艶やか過ぎる。唇を衝いた悲鳴だった。顔面に硬い表情が凍り付いているに違いない。
 「わたしよ!」
 それは素顔の文香さんだった。道ならぬ執着と、愛欲の恋煩いの相手である。
 天地動顛の極地。そして、大混乱……。
 それが、ふっと何かの怨霊の化身
(けしん)かと疑うほど、私には衝撃的であった。そこにまさか、実物がいようとは……。何たる怪奇現象。
 しかし、どうなっている?……。ガキの頭では、「世の中は狭い」と一蹴する以外ない。
 だが謎は膨らむばかりだった。更に感情の揺れに戸惑いがあった。恰好いいものでない。羞じを知れと、何者かに指弾されているようだった。

 「健太郎。あんた、文
(ふみ)ちゃんに、下心で、いやらしく口説いたそうだな!」姉が仁王立ちになって叱責した。
 「えッ?えッ?……」狼狽した。
 姉は文香さんを「文香」と呼んだり、ときには「文ちゃん」と呼ぶ。また文香さんも、姉を「政子」と呼んだり、お互いを「ちゃん付け」で呼んだりする。

 「それも謀議して、寺のバカ息子と種屋の糞ガキと、賭けをして?!」と責められた。指弾である。
 「うム………」絶句した。
 思えば、やつらの掌の上で躍った孫悟空だったのかも知れない。愚かな、弁解できない悲喜劇だった。
 「ねえ、ぼく。気に入ってくれたのなら、お友達になってあげてもいいのよ」
 揶揄
(から)かっているのだろうか。
 「えッ?!……」どういう風の吹き回しか。だいたい、これはどうなっている。
 「お友達になってあげてもいいといっているの」この一言は留めを刺すような口調だった。
 こういわれて、心に狼狽
(ろうばい)が湧いた。理解に苦しむ幸運なのだが、さてどう採(と)るか。どう答えるべきか。揶揄かっているのは明らかだった。なぜ、此処に文香さんがいるのか。
 「わたしと文ちゃんとは高校から大学まで同じクラスで、だから学部も同じ国文だったの」
 姉が種明しした。
 姉の友人と言われば、些かの困惑が生まれた。

 「ねえ、ぼく。まるで足をもがれた蟹
(かに)ね」冷ややかに言った。貌に冷笑が漂っていた。
 「……………」やられた!と思った。
 熱を上げた女性の正体が、これなのか。お粗末な恋煩いだった。千年の恋も一瞬にして醒めた。
 「お希
(のぞ)み通り、お友達になってあげてもいいといっているのよ。……なんなら、女になってあげましょうか」高めの目線で、嘲笑(ちょうしょう)するようにいった。
 ここまできたら異常であった。揶揄いにもほどがある。返答に絶句する。だが、これでおずおずと尻尾を巻いて退き下がるのも悔しい。
 「足がもげた蟹が、お気に召しましたか」
 「なかなか負けていないわね」
 「不朽の精神で生きていますから」
 「それを戦慄しながら……いうところは、健気
(けなげ)だわ」
 慄
(ふる)えているというのだろうか。文香さんはしたたかだった。
 「……………」
 さて、この妖怪、どう退治してくれようと思う。
 だが常に上を行く文香さんであった。これだけで充分に怕いことが分かった。
 「年上。お嫌い?」
 「いいえ」
 「ぼくより、かなり上よ」
 「構いません」
 「でもね。政子ちゃんと同じだから……」
 これを聴いた途端、悄然
(しょうぜん)として心が慄(ふる)えた。かつて歳の差で、こりているからである。
 「ええと……。ということは、八歳も年上?……」若く見える文香さんを知って驚いたのである。
 「驚いた?」
 「足をもがれた哀れな蟹ですから……」
 私が高校一年のときだったから、文香さんは24歳前後か。それでも不服はない。
 蟹の足をもいだ妖怪を退治してくれよう……、それくらいの気概はある。しかし、である。

 姉が昭和14年生まれであるから、文香さんも同じ年ということになる。そして私が昭和23年だから、戦中と戦後の開きはあるが、おおかた八歳から九歳前後違う。別に年上の女性が悪いと言うことでない。
 むしろ歓迎である。この妖怪、落すだけの価値がある。
 だが、姉の親友というのが問題だった。それが「しかし」となった。
 こうして、文香さんを口説いたことが、頭の上がらない構図を作ったのである。
 斯くして私は、手玉に取られて文香さんから「健太郎ちゃん」と呼ばれることになる。恋煩いは意外な形で終熄
(しゅうそく)した。
 しかし、これを「めでたしめでたし」と終わらせるには、余りに素っ気ない終わり方だった。


 ─────文香さんには、その後も、いろいろと世話になった。
 当時、私は大学のとき二十歳で古物鑑札を取り、学生の分際で刀剣商をしていた。
 少しばかり儲けては、嬉野で芸者を上げて散財し、復
(かえ)りはすってんてんになって、その時も懇々と説教したのは文香さんだった。
 学生の分際という時期に、古物商品の舞扇を大量に注文を受けたことがあった。それなりの、結構な値段のする舞扇だった。それを芸者衆が買ってやろうかという事があり、『舞扇即売会』という即売会場を用意してそこで販売したことがあった。
 そのときに第一回目の時は「頭が高い」と叱責を受けたことがあった。また、他の芸妓やその関連者から批難されたことがある。その度に劣位に顛落した。
 このまま一生頭が上がらなくなるのではないかと懸念した。
 しかし文香さんは協力者であった。言わばサヤン
(協力者)である。「文香サヤン」であった。こうして藤間流の芸妓を集めて、何回目の即売会のときである。

 最初の頭が高いという叱責が、いつまでも脳裡にあった。今度こそという覚悟で、私の店の番頭を連れて嬉野に出向いたことがあった。この時は舞扇ばかりでなく、煙草入れや、印籠なども扱い、これが一時期、飛ぶように売れたことがあった。今度こそ、頭が高いを言われまいとした。このときは丁重に心掛け、もう二度と言われまいとした。
 このときある会場を用意してくれた。二百人ほどが収容できる紹介状であり、オークション形式で舞扇その他の古美術品を販売したことあった。冒頭挨拶で、文香さんから紹介されて舞台中央の演台へと登壇した。
 普段から頭
(ず)が高いと注意を受けて私である。壇上に立ったとき、それで丁寧に深々とお辞儀したら、頭をマイクにぶっけて、ボコンという音がして、会場の芸妓衆から満場の哄笑(こうしょう)を浴びた。
 また文香さんから、「どじね!」と叱責された。このままじっと立たされていると、ばか、あほ、まぬけが次々に連打されそうだった。

 文香さんに舞台裏に引き込まれた。
 「健太郎ちゃん。いまの、わざとでしょう?」
 「違いますよ」
 「下手な受け
(評判)、こういうところで取ろうとしても駄目よ!」
 「違います。ぼくは文香さんと居ると、緊張して上がってしまうのです。美人に弱いのですから」
 「またァ……」
 「文香さんは、ぼくの永遠の恋人です」
 「きみ、だんだん口が巧くなるわね。それ、女騙しの、すけこましというのよ」
 「違います、上がり症なのです。そのうえ律儀で臆病なのです」
 「それ自体が、すでに悪党の話術」
 「えッ!悪党の話術ですか?……」
 「ひと誑
(たら)しというの、好色一代男の世界よ。これね、『三重戒』といって、博奕、大酒、そして好色の三つが重なれば、重罪とされてるの。このことは『風姿花伝』という書物に記されているわ」
 「うム………」
 「気を付けてね。人間が社会生活をしていく上では、それなりの技術がいるのよ。その歳から、羽目を外して人生を誤らないようにね……」
 「文香さんに蠱惑されて以来、あれからずっと、上がり症の癖がついてしまったのです。文香さんが、ブスでカバみたいだったら、ここまで病気は進行しなかったと思うのですが……」
 「それは、わたしの責任ではないわ」
 「しかしですね。此処に居る人は、みなさんは女性ばかりだし、小心者には上がり症が煽られます。綺麗処から見詰められると、身が竦
(すく)んで、気の小さな、ぼくとしては、緊張する以外ないんです。それで、つい上がってしまって……」
 「本当にドジね。以後、気を付けましょうね、ぼく」蔑むように言った。
 「はい!」私が元気よく返事をした。

 だが、この遣り取りが、舞台裏のマイクを通じて、満場の芸妓衆に聞かれて、また嵐のような哄笑を浴び、再び御目玉を喰らったことがあった。
 結局、「頭が高い」の揶揄が、哄笑を浴びる結果になったのである。ついていなかった。
 何かにつけ、よくしてくれるので、甘えてばかりいて、結局は文香さんには貸しばかりを作っていた。
 人の世話になっているという心苦しさを感じ始めたのは、この頃からだっただろうか。
 そして、することと言えば、痩せ我慢程度のことでしかなかった。
 頭が高いとは、またドジを侮蔑されて頭が上がらないことであった。しかしその一方で、文香さんの蔑みを素直に楽しむ私でもあった。それだけに、変わり者の異端者として、寵愛
(ちょうあい)の対象であったかも知れない。なにしろ私は、文香さんに足をもがれた蟹であったからだ。
 ただ警戒すべきは、「寵愛昂
(こう)じて尼にする」だけは御免蒙りたかった。

 私は、庇護下の取り込んでくれたからと言って、いつまでのその傘の下で甘んじるのは好きでない。直に居心が地悪くなる。据わりが悪くなる。そして自尊心を削がれたようになる。
 一度や二度、扶
(たす)けてくれてもらったことで、他人の庇護を受けて暮らすわけにはいかない。人間は自分で生きなければならないからである。
 庇護など、真っ平だ。私の痩せ我慢であった。


 ─────世の中、至る所に幸福の安売りが横行している。
 幸福・幸福・幸福と幸福の形がパターン化され、無理に幸福を押し売りしている。そんな押し付けがましい幸福で幸福になれる訳がない。
 幸福を希
(のぞ)む人は、今も昔も変わりない。だが、幸福とは何かというと、それが十人十色で定まったものがない。
 幸福とは何かと問われて、ある人は趣味に陶酔する至福の時間というし、またある人は家族の囲まれたマイホームがあることだというし、あるいはまたある人は多くの金を手にした時だという。
 しかし、これらの人達の言う幸福論は、物に限られているようである。現代人の多くは物に求め、心の幸福は不在であるように思うのである。心が不在であるが故に、精神の苦しみは手っ取り早く消去することばかりを考えているように思うのである。だが、心の苦しみを早々と消去させて、真物
(ほんもの)の幸福は掴めるものだろいか。果たして即席で掴んだ幸福が、真の幸福になり得るだろうか。それは贋作である。
 やがて、幸福擬きは、色褪せて鍍金
(メッキ)が剥がれよう。

 私は「幸福とは何か」と問われて、「へこたれないこと」「困難に立ち向かうこと」「命を何かに生き変えにして人の役に立てたこと」そして何よりも「最後まで不朽
(ふきゅう)の精神を失わないこと」ではないかと思っている。幸福であるより、幸福の路線を歩いている……。これが大事なのである。幸福であったか、こう服でなかったか。そんなとは大して意味がない。幸福の路線を、いま歩いているということが大事だ。それだけで既に幸福なのである。
 つまり、自身が絶望しない限りにおいて、幸福はいつまでもその機能を失わず、発揮して、なおも輝き、作動していると思うのである。
 換言すれば宇宙の根本の気である玄気
(モトの気)と、自らの元気が繋がっていて、幸福の下絵は自分自身で演出することではないかと思うのである。
 幸福は自らが演出する限りにおいて、この人生ドラマはおもしろくなると考えている。
 仮に、私の人生ドラマが何処か巨大なスタジアムかなにかで、5万人規模でこの物語か活劇が鑑賞されているとして、その主人公が泣き言を云ったり、弱音を吐いたり、愚痴ばかりいって不満を露
(あらわ)にしたり、脅されて妥協して軍門に下っては、この人生ドラマは決して面白いものであるまい。
 このドラマがおもしろいと言う条件は、主人公が不朽の精神をもって、倒され手も起き上がることである。打たれても、叩かれても、あるいは非常な蹴りを喰らって肋の一本や二本叩き折られても、それでも敢然として立ち上がって、刃向かっていくことではあるまいか。

 一歩前へ……。
 私はこの言葉で、自分を自分で励ます。私の信条である。
 だから、私は人の真似をした下絵は描かないことにしている。自身のオリジナル作品で勝負したい。
 また下絵があっても、人生は下絵通りにはならない。努力しても、その努力は必ずしも実らない。

 更にである。
 世の中は至る所でセックスアピールの現象が溢れている。性的魅力で溢れている。そこにセックスシンボルなる物が登場する。性的魅力を強く印象づけて、大衆にそれを売物とする輩
(やから)が登場する。やがてそれらが市民権を得る。常識化する。また他人が浮気しているから自分もそれに倣う。不倫しているから自由恋愛の名をもって自分も不倫に奔る。不倫から離婚騒動に発展する。これでは傍(はた)迷惑と言うものである。
 自他の迷惑にならないために、筋は通したいと思っている。

 吉田松陰は愛弟子の高杉晋作らに対して、「男子はどこで死ぬるべきですか」と、男子の本懐
(ほんかい)を問われた際、松陰は直ぐに確答できなかった。しかし「不朽の見込み」があるならば、という条件付きで、その答えを手繰(たぐ)り寄せている。
 そして至った結論は、こうであった。
 「死は恐れるものではない。また憎むものでもない。生きて大業
(たい‐ぎょう)を為(な)す見込みがあるのならば、いつまでも生きたら宜(よろ)しかろう。死して不朽の見込みがあるのなら、いつどこで死んでも宜しい。要するに、死を度外視して、為すべき事が大事である」と説く。

 以降、こうした死に態
(ざま)の示唆は、高杉にとって、大きな運命を決する方向性を与えた。
 「潔
(いさぎよ)く死ぬ」という武士道観に加えて、単に死ぬ事だけが美学とするこれまでの武士の固定観念は、「犬死」を避けて、「不朽の見込み」のある場所に限り、と限定が付いたのである。
 こうした松陰の遺志を最高に実現させ、見事の維新まで引き摺
(ず)って行った橋頭堡を築いたのは、高杉晋作であったが、その晋作の死に態を支えたのは、処刑寸前の松陰であり、「死して不朽の見込み」あり、とその行動原理の原点を示したのは松陰自身であった。

 「男子はどこで死ぬるべきですか?」と問われて、
 「死して不朽の見込みがあるならば……」という結論に至れば、その人は人生を縦横に生きたと言えるべきではあるまいか。
 しかし、私のような凡夫は未だに縦横に行き着ことを知らない。迷って、煩悩多きことに苦悶している。
 一方で、煩悩即菩提という。だが、これを解するのがなかなか難しい。


 ─────高校の時もそうだったが、大学時代も、よく嬉野に舞い戻り、姉の家に転がり込み、「人生を縦横に生きることとは何か?……」などと思索に耽っていた。人生とは何か?ではない。その舞台において、縦横に生きることとは何か?……であった。演出家の考え方で、自分を主人公として演出するのである。その模索である。
 それは人真似を模索することでなく、自らのオリジナルで、縦横に、自由に生きるとは何か?であった。

 転がって何もしない静の状態を維持しているときに、文香さんは「また腐って退屈しているの?」と何度か聲
(こえ)を掛けられたことがあった。そのときに限って、返す返答は「まだ絶望までには至っていません」と言ったことがあった。
 世の中は革命の嵐で真っ赤に染まり、全共闘が猛威を揮った時代である。私は赤い嵐には馴染めなかったのである。
 大学の行く気も失せていた。毎日、休講・休講の日々であった。その頃、「大学とはなんだろう?」と失望し始めていたが、まだ絶望はしていなかった。
 大学構内も『スト決行』とか『革命蹶起』という角々のプロレタリア文字のレターリングされた看板が眼に付いていた。学生が構内に解放区として一劃を占拠して立て籠る。ブルジョワ的教授を探し出しては吊るし上げる。まるで中国大陸に荒れ狂う紅衛兵の愚行の日本版をやっていた。こんな大学に魅力があるわけはない。
 それは失望に繋がり、やがて絶望に変わるのは時間の問題であった。
 バカバカしい大学に行かずに、嬉野の姉の座敷の転がり込み、時に芸者を上げて憂さ晴らしをしていた。しかしドンチャン騒ぎしたところで、憂さは晴れない。

 私が失望したのは、小さな商店の商店主や、零細企業の経営者が赤軍革命集団に「革命が成就した暁には、うちを宜しく」と寄付金や活動資金を提供していることであった。これらは、今では形を変えたシンパサイダーとして当時と同じことをしている「革新政党に一票を」と言う人達である。それが悪い訳でない。
 しかし、日本人が日本人に銃を向け、刃物を向ける。なぜだろう?と思ったからだ。そして、左翼陣営のジャーナリズムは、それが正しいことだと宣伝していたことである。この不可解に、私は馴染めなかったのである。

 この日も腐って、ひっくり返って、腕枕して天井を睨んでいた。その座敷に、文香さんが入って来たことがあった。
 「また腐っているの?」
 「絶望していません、失望中です」
 「失望しながら、人生とはなにか?……などと、手垢
(てあか)のついた台詞でも考えてているの?」
 「手垢がつくほど、まだ老朽化していません」
 腕枕して天井を睨んで答えていた。
 「ねえ、腕枕、疲れるでしょ?」
 「なんとか持ち堪えています」
 「じゃあ、膝枕してあげましょうか」
 「えッ?ご冗談でしょう……」
 驚いて、むくっと起き上がった。
 「やってあげるわよ、それとも怕い?」
 「文香さんの冗談も、最近はエスカレートしますね」皮肉を吐露するように言った。
 胡座目線で検
(み)る文香さんのミニスカートから伸びた剥き出しの太腿は、震い付きたくなるくらい美しかった。ブルーのシックなワンピースを着ていた。これだけで「汝は既に姦淫したり」であった。
 果たして膝枕してもらうべきだったか……。

 「もう、寝飽きたの?」
 「落ち着かないんです」《文香さんが傍に居ると》と付け加えたかった。
 すると文香さんは、「きみは、ますます変な方向に進んでいるのね」と注意するようなことを言った。
 「そうでしょうか」
 「エネルギー切れね」
 「生命
(いのち)の火ぐらい燃えていますよ」
 「庭の中に欅
(けあき)があるでしょ。どれか分かる?」
 「欅?……、あの石燈籠の横の樹かな……」
 「そう、あれ。欅って、どういう樹か知っている?」
 「さあ………」
 「此処の料理茶屋、幕末からあるのよ。此処は維新の志士達が旅に疲れて、休憩地だったというの。特に鍋島の佐賀藩士たちはね。また平戸藩士たちも。昭和になって、日中戦争とき、久留米から平戸に向う陸軍の軍人さんがいたんだって。その軍人さん、誰だか分かる?」
 「?…………」
 「これ、霜龍寺の老師さまから聴いたんだけど、その軍人さんの名前は岩崎宗樹
(むねき)という、まだ駆け出しの少尉さんだったて」
 「岩崎宗樹!……」
 「そう、きみのお父さん。そして政子の父親……。久留米の第五十六師団から徒歩で、平戸に向う途中、この料理茶屋に一夜の宿を借りるために立ち寄ったんだって。その軍人さん、背嚢を背負って、拳銃と軍刀で軽武装した少尉さんだったて。そのとき、強行軍をしていて、ひどく疲労困憊していたというの」
 「……………」
 「あの欅。樹齢二百年以上過ぎていると聴くわ。欅の生命エネルギーは、大地から吸い上げる無限のエネルギーがあるというの。これは別に科学的に証明されてる訳じゃないけど。でも、言い伝えによると、此処に立ち寄った旅人は、あの欅の幹を手で触ってエネルギーを貰い、また元気に歩いていったそうよ。それを教えたのが政子のお母さんだったの。当時15歳と聴くわ」
 「……………」
 「わたしと政子は昭和14年生まれ。きみは、政子の名前、誰が付けたか知っている?」
 「確か、霜龍寺の老師が名付け親とか……」
 「じゃあ、謂
(いわ)れは?」
 「泣きわめく赤ん坊の姉を見て、鎌倉時代の源頼朝の妻で、頼朝の死後、尼将軍と称された北条政子を想
(おも)わせたという。舌端(ぜったん)火を吹くような……と」
 「政子はね、あの樹のエネルギーを受けて生まれて来たの。あの樹の精……。きみも欅の幹に触れて、エネルギー貰って、十年先、二十年先の未来に向かって歩き出したら。だけど、その前に、これ、読んで」と薦めてくれた一冊があった。
 「なんですか?」
 「社会生活を営む上での、それなりの技術が要
(い)るのよ。それを教訓を通じて解説した解説書。これ読むと、なるほどと、思うところが多くあるわ。読んでみない?」
 「転ばぬ先の杖ですか」
 「これね。繰り返し読むことによって、読者の年齢に応じて、感じ方が変化する、奇妙な本なの」と言って差し出したのが、かの名著『菜根譚』であった。
 文香さんは、その内容の一部を朗読してくれたことがあった。
 「声妓
(せいぎ)も晩景(ばんけい)に良(りょう)に従えば、一世のエン花、碍(さまた)げ無し。貞婦(ていふ)も白頭(はくとう)に守りを失わば、半生(はんせい)の清苦(せいく)、倶(とも)に非なり。語に云う、『人を看(み)るには、只後(ただのち)の半截(はんせつ)を看よ』と。真(まこと)に名言なり。……ねえ、意味分かった?」
 「……………」
 奥の深いことをいった。

 「理系の君には無理か?……」
 「まったく分からない訳ではない。要するに晩年の生き方を保てと言っているのでしょ。その人を検
(み)る場合、晩年を検れば、その人が如何なる人生の旅人であったか分かる。そういうことではないでしょうか」
 「そう。でもそれは直截的解釈。それでは駄目なのよ」
 隠れた部分の藕糸
(ぐうし)を読めということだろうか。
 「どうしてですか?」
 「いい。『菜根譚』の著者・洪応明
(字は自誠)ね。ただ、晩年をよくしろといっているのじゃないのよ。
 人間は生きて例えば七十年生きたとするわよね。そのとき過去を振り返って、それは一瞬のうちに過ぎたと感じるだろう、と。でも、その間に贅沢したか、いい思いをしたか、苦しんだか悲しんだか、こういうのは大した問題ではないと言っているの。
 ところが、七十年の人生のうち、六十九年何ヵ月間を生きて、あと寿命が燃え尽きるまでの数ヵ月か、数十日か、数日かあるとするわよね。その寿命の尽きんとする終末の末尾の、息を引き取る前の半日とか、一時間前とかが、もっと大事だと言っているのよ。この意味が大事なの、分かる」
 意味深長なことを言った。
 文香さんは大学卒業後、姉のように教師にはならなかったが、国・漢・古の資格をもち、中学一級、高校二級の教員免許を持っていた。指導力があった。
 あるとき「わたしも政子のように、教師を一度は経験していればよかった」と吐露したことがあった。大卒コンビの二人の芸妓は、知る人が知る異端者だった。
 私が大学に失望して、こうして腐っていると、車で駆けつけて来て、「今度は、きみが、わたしの教え子になりなさい。きみの疎い国・漢・古を教えて上げるわ。きみは和歌ひとつ読めず、俳句のひとつも捻り出せないでしょ?」
 「いえ、一つくらいだったら……」と反論したことがあった。
 もしかしたら、文香さんは誰かに教える行為がしたかったのかも知れない。もし文香さんが、中学か高校で教師をしていたら、「美貌の先生」として騒がれたことだろう。
 しかし文香さんは、私が高三のとき、一ヵ年、高校教師をしたことがあった。
 高三の時期は私も受験であり、殆ど嬉野には足を運んだことがなかった。文香さんは25歳のとき県教育委員会の教師採用試験に合格して、国・漢・古の教師をした経験を持っていた。姉と入れ替わること、三年後のことであった。そのことを知らなかった。

 このとき、ひとりだけの教え子相手に、文香さんは淡々と語り、問うた。
 「息を引き取る前の半日とか、一時間とかがですか」
 「そう。そのときに、夢のように早い時間で過ぎた人生を走馬灯のように回想して、この僅かな時間、あるいは刹那に、『ああ、人生ってよかったな』とか『おもしろかったな』と感じれるか否かと言っているの。
 それで人生が幸福だったか、不幸せだったか決定されるとしているの。作者はそう主張するの。だから、その人の晩年とは、いま息を引き取らんとする刹那に、ああ、おもしとかったと感じれば、その人の人生は仕合せだったといえるとしているの。これ、偉大なる原理原則と思わない?」
 これを聞いて、自分がハッ!とさせられたことがあった。
 文香さんの言った原理原則は、その言葉の裏に、社会生活を生きる上で、人間は国家が何から何まで守ってくれる保証はないという意味が含まれていたのである。

 「改めて、文香さんに惚れ直しましたよ。乞うて、嫁さんにしたいくらいだ」
 「八歳年上で構わないならどうぞ。でも、中途半端では駄目よ。そうでしょ、中途半端では幸福になれないもの。きみが確信できたら、そのときは考えて上げるわ。わたし、人間の表皮だけの美醜だけの判断で、好悪を判断する人、嫌いなの。それに、性対象だけでも真っ平御免だわ。女は性交用のダッチワイフではないんですもの。
 惚れるなら、醜美も清濁も、善悪綯い交ぜにして、一切、まるごとね。その覚悟があるのなら、どうぞ。
 そのときは、なんでもなってあげるわ。上でも下でも、後ろでも……」
 文香さんはおくびもなく、ずけずけ言う人だった。それだけに歯切れがいい。世の中の酸いも甘いも知っている人だった。しかし、この言葉が恐ろしい。決死の覚悟がいるからである。
 武士に二言のない確認でもあり、ひとたび言葉に出して言えば、最後まで履行しなければならない。女でも男でも、せいぜい我慢して見られるのは40歳くらいまでだろうか。この初老に差し掛かる時までである。
 昨今は「初老」を60歳前後に置いているが、人生五十年当時、初老は40歳前後で訪れる歳だった。
 時代とともに定義される年齢も遅くなっているようである。

 「文香さんを丸ごとというのは、つまり丸ごとですよね」
 「そう。丸ごと。この丸ごと。人生も丸ごとと言う意味よ。例えば、わたしが70歳になったとき、ぼく、幾つ?」
 「62歳です」
 「そしたらぼくが80歳としたら、わたし幾つ?」
 「文香さんは88歳です」
 「そのとき、どういう88歳かしら?」
 「運が良ければ健康かもしれませんし、運が悪ければ寝たっきりかも、惚けているかも……」
 「そう。ただしそれはその年まで生きていたらという話よね。でも、人間は病気にも罹るし、事故や事件に巻込まれることもあるし、そういう運命までを含めて、丸ごとなの。もう、わたしだって何かの病気を罹病しているかも知れない。自分では病気だと思っていなくとも、実際には罹病していて、気付かないかも知れないのよ。だから、わたしの表面だけを見て、気易く、丸ごとなどと安易に安請け合いしては駄目なの」
 「では、文香さんはその美貌の下に、例えば結核性痔瘻
(じろう)なんかを患っていて、それで悩んでいるなどの場合を含めてですね」
 「表現が穢いわね」
 「じゃあ、腋臭
(わきが)などでは?」
 「どっちも穢いわ」
 「では、患っている部位を変えましょうか?」
 「もう、いいわよ。きみが言っていること聞いていたら、全部穢くなるでしょ」
 「しかし、その穢い部分を含めて、丸ごとなのですよね」
 「そう。それが丸ごとと言う意味なの」

 さて、ここまで言われれば、気の弱い小心者の私は尻込みする。
 もし、私が70歳になったとき、文香さんは78歳。彼女は寝たっきりで、よいよいになってオシメをしているかも知れない。そのときオシメを替えるのは、その亭主をおいて他にいない。
 若い頃、美貌の女性でも、さすがに78歳までは、その美貌も保てまい。頑張って40歳過ぎれば下降線である。50歳、60歳、70歳、80歳の時の文香さんはどうなっているのだろう。この美貌の女性も、その歳になれば、くしゃみ一つして失禁するかも知れない。歯が抜け、頭髪が抜け、失明して、老醜も出る。
 体形も紡錐形になって、腰のくびれはなくなり、ボテ腹かも知れない。その歳になって、痔瘻で苦しむ文香さんがいるかも知れない。
 また精神に異常を来たし、精神分裂病
(統合失調症)で苦しむ文香さんかも知れない。そこまでを含めて、丸ごとと言っているのである。美貌の耐久時間が短い。今だけを、丸ごとと言っているのではないのである。
 そこまで読んで、丸ごとといったのである。そこまで言われれば、畏れ多くて近寄れない。
 まさに文香さんは、女傑であった。決して綺麗事を言っているのではない。
 文香さんの言葉の中には、「人間は歳を取って、枯れれ凋
(しぼ)んで、穢くなるのよ。若い時のようには美しくないのよ」という鋭い意味の藕糸が隠されていた。
 それを自ら断言し、私に向って問うたのである。

 古くなったら捨てるのか。また、不運にも交通事故やその他の病気で、貌半分が醜くなったり、爛
(ただ)れたり、損傷した場合は、「それでも構わないのか」という履行の確認である。これを認めるなら、その覚悟があるのなら、考えてやると言うことなのである。言っていることが凄まじい。美貌だけを売物にしている女性でないことが即座に分った。しかし、近年はこんな女性をとんと見なくなった。尻軽奨励や不倫奨励のマスコミの所為(せい)だろうか。
 また、男が襟を正すような女性は極めて少なくなった。
 人生の執念と言うか、その覚悟と言うか、その信念は恐ろしいものがあった。
 私は文香さんの表皮で、判断する美醜の中途半端なる考えを恥た。

 古代中国の春秋時代、斉の大夫に晏嬰
(あんえい)なる人物が居た。
 この人物は霊公・荘公・景公に仕え、晋の叔向
(しゅっきょう)、鄭の子産らと並んで賢人宰相とされる偉人である。かの諸葛孔明が、絶賛した人物であった。その絶賛ぶりはかの『梁甫吟』の「二桃三士を殺す」の計などからも分かろう。斉の国に公孫接(こう‐そんしょう)、田開疆(でん‐かいきょう)、古冶子(こ‐やし)という三勇士がいた。いずれも勇将で、武闘派の武人である。
 また文にも優れ、大地の四隅を巨大な紐で繋
(つな)ぐ、これを断ち切るほど学問もできる人たちだった。それだけに彼等は、これまでの功績を誇って、勝手気ままであった。然(しか)るに三勇士は文武の人で、当時一世を風靡(ふうび)したといえる。これは晏嬰から見れば、危険この上もない。
 危機感を抱いた晏嬰は、巧妙な策を用いて三勇士の誅殺を図った。
 晏子の計はこうである。
 功績を自慢する三士に、二個の桃を与える策を思いつく。
 それは、一人に一個ずつの三個でなく、三人に“二個”である。この意味、お分かりだろうか。
 その絶賛ぶりが、諸葛孔明の口ずさんでいたと謂
(いわ)われる『梁甫吟』の「二桃殺三士」の詩である。
 更に特記すべきは、晏嬰なる人物なのである。

 景公は晏嬰に、愛娘
(まなむすめ)を嫁がせようとしたことがあった。これは一説には、景公は晏嬰の智を恐れていた。智謀を警戒したともいわれる。その智謀は「二桃殺三士」からも分かる。
 景公曰く、「晏嬰よ。そちはもう老年だし、またその正妻は皺
(しわ)くちゃな老婆ではないか。なんと酷い婆さんだ。それに皺だらけで醜い。今、わしに娘がいるからそれをもらえ。若い上に器量好しだ。そちの宮に入れよ」と景公は宴席で、晏嬰の皺くちゃな正妻を見下すように糟糠視(そうこう‐し)していった。
 そのとき晏嬰は席を退けて、景公に改まった態度で言った。
 「おそれながら、わが君。妻が老いて醜くなったのは、この嬰と長年連れ添ったためでございます。これが若くて美しいき頃に、契
(ちぎり)を結び、夫婦(めおと)になりました。その夫婦の契は、若く美しい時だけの契にのみならず、老いてまで添い遂げる約束で契ったものでございます。それゆえ、如何にわが君の仰せでありましょうとも、背くことはなりません」
 こういって晏嬰は、景公の若くて器量好しの娘を、自分の宮に入るのを断ったのである。

 この話から考えれば、文香さんが言った「丸ごと」とは、皺だらけの醜い老婆の年齢まで含まれる。今の美貌に包まれた若い時だけを言っているのではないのである。
 文香さんは、私如きでは、とても適
(かな)う女性ではなかった。しかし文香さんのこの迫力は何だろう。
 むしろ率直に言えば、慈母に近い女性だった。恭
(うやうや)しく、頭(こうべ)を垂れたい女性である。
 こういう女性を妻に迎える場合の覚悟は、中途半端であってはなるまい。
 また口先だけの覚悟であってもなるまい。表皮の醜美で、あるいは今日に持て囃されているフィーリングなどという曖昧な判断で考えると、とんでもないことになろう。もう情操などの次元を逸脱していた。彼女は小娘のように、恋に憧れている乙女ではなかった。それが凛
(りん)とした態度をとらせるのだろう。
 この側面に芸妓の、芸道に生きる女性の執念を見た思いがした。
 彼女はどこまでも、私の頭の上がらない、私が頭を高くしてはならない女性だった。
 彼女が、以降私の人生に大きく影響を与えた人であることは、七十に達した今、かつてを振り返ってみてそう確信するのである。

 高校の頃、文香さんと知り合い、お近付きさせて頂いて以来、好きな女性であった。それは恋慕の思いからというのではない。好人物として好きだった。そして女としてよりも、文香さんの筋金入りの芸妓としての人間の生き方に、共通項を見出していたからである。

 私は小学校四、五年のとき、周囲からは「卑しい職業の家の子」として蔑まれた眼差しを感じていたが、芸妓が、みな躰を売る訳でない。仮に躰は売っても、心は売らないのである。
 これまで、そういう毅然とした筋金入りの芸妓を、何人も見てきた。彼女たちは生き方に自負があった。

 むしろ、昨今の身持ちの悪い尻軽妻女より、よほど確
(しっか)りしていた。この世界は不倫無用だった。素人の家の子女より、よほど確かだった。筋を通すからである。
 可もなく不可もなく中途半端な素人家庭では、余所
(よその)の女を、あるいは余所の男を抱けば、トラブルに巻込まれるということを甘く考えている。
 また、不倫真っ盛りな現代の世では、至る所に自由恋愛が横行し、隙あれば潜り込んで、それに甘んじようとする人間が殖えている。したがって、過ちを犯したあと、ゴミみたいな揉め事が自分では解決できない。

 社会生活が高度化すれまするほど、手当たり次第、ちょっかいを出して、トラブルを起こしたり、相手の家族から蔑まれたり怨まれたりする無能な人間が殖えている。その裏には、世の中の筋が見えなくなる現象が起こっているからだ。その最たるものが、現代人の中途半端な行いである。
 玄人の芸妓の世界。恐るべし。
 思えば筋が通っているから、一般素人のように中途半端でないのである。修羅場に立ち向かう力が養成されているからである。襟を正す必要があろう。

 中途半端では、人生のおもしろさが半減する。文香さんには、こういう想い出がある。
 文香さんは確かに美貌で容姿の美しい女性であったが、彼女に接近するには、それだけに中途半端では済まされなかった。それなりの責任が課されるのである。それを果たさない以上、近付いてはならないのである。
 文香さんは覚悟を必要とする女性だった。綺麗だが、それだけに恐ろしい。綺麗なものに近付くには、接近する方に、それ何の覚悟がいる。況
(ま)して、凛とした美しさを秘めている人には尚更である。
 時代は昭和から平成へと変わった。
 斯くして、この時代を何と評するか。

 命長くして恥多しこの時代、一方で、死に臨んで、じたばたする態度が多くみられる。
 身体年齢が、成人と言う年齢に達した人を、大人というけれど、フランス革命当時に、断頭台の露と消えた人の方が、現代の大人以上に、死生観を超越していたのではないか。
 こういう時代であるから、襟を正す必要があろう。命長くして恥多しこの時代、それは現代人に時代が襟を正すことを要求している時代ではないのか。


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