運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣・後編 1
旅の衣・後編 2
旅の衣・後編 3
旅の衣・後編 4
旅の衣・後編 5
旅の衣・後編 6
旅の衣・後編 7
旅の衣・後編 8
旅の衣・後編 9
旅の衣・後編 10
旅の衣・後編 11
旅の衣・後編 12
旅の衣・後編 13
旅の衣・後編 14
旅の衣・後編 15
旅の衣・後編 16
旅の衣・後編 17
旅の衣・後編 18
旅の衣・後編 19
旅の衣・後編 20
旅の衣・後編 21
旅の衣・後編 22
旅の衣・後編 23
旅の衣・後編 24
旅の衣・後編 25
旅の衣・後編 26
旅の衣・後編 27
旅の衣・後編 28
旅の衣・後編 29
旅の衣・後編 30
旅の衣・後編 31
旅の衣・後編 32
旅の衣・後編 33
旅の衣・後編 34
旅の衣・後編 35
旅の衣・後編 36
旅の衣・後編 37
旅の衣・後編 38
旅の衣・後編 39
旅の衣・後編 40
旅の衣・後編 41
旅の衣・後編 42
旅の衣・後編 43
旅の衣・後編 44
旅の衣・後編 45
旅の衣・後編 46
旅の衣・後編 47
旅の衣・後編 48
旅の衣・後編 49
旅の衣・後編 50
旅の衣・後編 51
旅の衣・後編 52
旅の衣・後編 53
旅の衣・後編 54
home > 小説・旅の衣 > 旅の衣・後編 2
旅の衣・後編 2

闇の世界では、静寂の中をモットーとするが、それは音に敏感であり、音だけが外部と繋がる通路であったからだ。
 音もよければ併せていいインスピレーションが齎され、また閃
(ひら)きが起こる。直感も鋭敏になる。この鋭敏さが勘である。

 二言目には“科学的”の言葉を連発させて、勘を非科学的と見下す現代にあって、勘が「心の顕われ」ということを忘却した時代は、数値主義主体のため、「勘」が蔑ろにされる現実を生んだ。
 斯
(か)くして、この現実に流され、人間本来に具わった「勘」は迷信と結びつけられ、非科学の譏(そし)りを受けることになった。

 今や勘は、科学の対象であり得ない。侮蔑の対象である。迷信極まる非科学的な妄信と一蹴される。ところが、非科学として譏られるこのこと自体に、不可解にも科学的根拠がないのも、また事実である。勘は、数値で測定されないからである。ぜいぜい、的中率のあやふやな確率で表現できる程度に留まり、当たるも八卦当たらぬも八卦程度の、それ以外の何ものでもないようだ。

 現に天気予報と地震予報が正確に予測できない。この予測不能を科学者たちは、過去のデータがないと言う理由で、不測の弁解をしている。だが実情では、波動とかカオスの分野は、未だに未科学の分野に属しているのである。
 科学的分析は。ときには外れることもあり、たまたま“紛
(まぐ)れ中(あた)り”することもある。しかし「勘」は一蹴されている。


●時務

 胆識をもって時務を果たして行くという。
 秋月丈太郎氏によると、知識では時務は果たせないという。時務を果たして行けるのは胆識であるという。
 では胆識とは、いかなるものか。
 現代は知識が優先される世の中である。だが、知識では時務は果たして行けないという。つまり、果し合いと言う真剣勝負において、知識では歯が立たないという。
 昨今の日本人は知識を最高のものとし、総ての言葉による観念に頼るようになってしまった。
 しかし、戦前・戦中はそうでなかった。戦後生まれの世代は言葉による観念に拠
(よ)り所を求め、総て百の説法主義で教育されて来た。この環境下から根本的な素朴さや朴訥さが消え、良心と言うものが知識だけで理解されるようになった。

 だが、戦前・戦中に教育された人達は、その多くが、心の沁
(し)み入る子供の感情に響く概念で良心を育成したため、その受け取り方も戦後生まれとは異なってものを持っていた。つまり「恐れ畏む神」に対する接し方をして来たのである。その接し方が、人は見ていなくとも「神は見ている」という恐れ畏む概念だった。
 ところが、現代はその恐れ畏む意識が薄れ、また気休めに成り下がり、自分の欲する勝手なときだけ、神仏を持ち出し、祈願するというものである。現代人は、眼に見えないものは信用しないのである。
 この不信用は則ち、怕いもの無しに人間を成長させてしまったのである。総て科学が解決するという科学万能主義を謳歌
(おうか)させたのである。
 思えば、臨戦態勢が失われたといってもよい。安易に物質のみに頼り過ぎると、今度は人間側か、点検する要を失う。自身の心に隙を作る。隙を衝かれると殆
(あや)うい。

◆自己点検・五箇条◆

1.依頼・招来の手続きに甘えがないか。
2.始末が出来ているか。
3.筋が通っているか。
4.礼儀に叶っているか。
5.接し方に奢りや見下しがないか。
五つを点検して、心の奥で自問してみる。

 「皆さんは、いま臨戦態勢に突入されていることを、ご存知か」
 秋月丈太郎氏は臨戦態勢なる言葉を用いて迫った。
 「秋月先生、臨戦態勢とは?」
 「ご存知ありませんか、岩崎君。いまは戦争で言えば正念場であり、戦闘開始の状態にありますぞ」
 「それは、自分が挙げた貸借対照表と損益計算書の数字の問題を言っているのでしょうか」
 「数字を並べ、組み替えただけでは、尻尾が見えますぞ。どうせ遣るのなら、巧く隠して下さい。
 そして、はっきり言えば、銀行と言うのは、税務署側の人間です。幾ら修正申告をして納税額を釣り上げ、粉飾したところで直ぐに見抜いてしまいます。なぜ、見抜かれるか、考えたことがおありか」
 「数字に根拠が薄い……、そうとられるのでしょうか」
 「君のあげたこの提示には、物語がない。不断の生活反応がない。それは経済反応は皆無と取られます」
 実に鋭いところを衝いて来た。
 「不断の……ですか」と痛いところを衝かれたと思った。
 「それにだ。確固たる借入を保証する連帯保証人がいない。連帯保証人は、借入者の人物を保証するに留まらず、数字までを保証する保証人のことです。これでは、結局無担保で、数千万円を貸せと言っているようなもの……。さて、世の中に、このような奇特な銀行家は、果たして存在しますことやら」
 言われて見れば尤もだった。何もかもお見通しだった。
 私は懐手で、唸るしかなかった。
 「秋月先生、どうしたら宜しいでしょう?」
 「それは君が考えて下さい。私は、知識では何もならぬと申しておる。要は胆識です。胆識のみ、この場合の時務を果たせます」
 時務……。なんとも難しい言葉であった。サラリーマンには無用な言葉だが、経営者としては最後まで付き纏う言葉である。時務を果たして行くには、サラリーマンのようにタイムカードを、ガチャンと捺
(お)すだけで責任が果たせないからである。
 考えれば考えほど、難解な問題だった。しかしその問題を、秋月丈太郎氏は自分で問題解決せよという。

 秋月氏がぽつりぽつり語り始めた。
 「この話が果たして参考になるか否かは分かりませんが、あれは私が、シベリア抑留から解かれて返って来た昭和22年のことだった。おそらく抑留組の第一陣の最初の帰還であったかも知れない。到着したのは舞鶴だった。そのとき、戦後はじめて日本の土を踏んだ。まさか生きて帰れるとは思ってみなかった。戦争に召集されたのが昭和19年8月。訓練と言う訓練も受けないまま、私の混成旅団は満洲ハイラルへ派遣された。
 そして昭和20年8月17日、わが軍は武装解除になり、シベリアへと連行された。そのとき、おおくの死者が出ましたよ。その極寒の地で、約二年半、重労働の労役生活を送りました。筆舌に尽くし難いほど大変なところだった。生き残り組は、第一陣として日本に還って来ました。その後、これまで税務署に勤めていた関係上、私は復職した。下級官吏として仕事を得ました。しかし物資難の時代、それは大変でしたよ。
 当時、私は上役と一緒に、滞納企業や組合などの団体に廻る部署にいた。催促ならびに徴税する担当する部署を遣らされました。行く先々で、毎日、脅しと暴力に明け暮れる日々でした。何度、税務署員を辞めようと思ったかも知れません。しかしです。私の上役に特攻隊上がりの三田村という係長がいて、この人が肚の据わった人だった。この人から常時戦場に等しい世の中の渡り方を学びましたよ。
 私たちが訪れた先に、組合組織の炭坑夫で構成する職員組合がありましてね、経理指導と、時によっては徴集を課す仕事をしていました。上司の三田村係長と、毎日そこに足を運びました。
 私たちが訪問すると気の荒い鉱夫たちが遣って来て、『何しに来た!』と執拗に絡んで嫌がらせをし、次に脅しに懸かるのですよ。しかし三田村さんはね、彼らがどんなに脅そうと、根気よく諄々に説得して、暴力に対して、暴力で答えなかったのですよ。
 この人は、もと特攻隊員で人間魚雷『回天』の特殊潜航艇の搭乗員だった海軍少尉だった人ですがね、恐ろしく肝
(きも)が坐っていて、筋金入りの軍人でありながら、それを微塵(みじん)にも見せることもなく、とにかく頭を低くして、根気よく説得をはじめたのです。そして私に、こう言いました。
 『この人達は、知識を振り翳
(かざ)しても、腕で争っても通用しない人なんですよ』と。『だから自分は、諄々に説得する以外ない』というのです。毎日決まった時間に訪れ、昨日と同じように説得するのです。そして炭坑夫が如何に烈しい仕事をしているか眼にしているものですから、いつの日か、私たちは彼らに対して、『毎日、お仕事ごくろうさんです』と聲(こえ)を掛けたのですよ。それは尊敬の意味からです。いつしか、それが訊ねたときの挨拶になっていました。それから一ヵ月ほど通いましたか、そこで奇妙は変化が顕われていたのです。その職員組合の代表者が、話を詳しく聞こうとなったのです。こうしてやっと彼らが、私たちの話を聴いてくれるこのにったのです。
 つまり、知識も腕も通用しない相手には、地道に通い続け、諄々に説得して聞いてもらうしかないと思ったのです。この時務に、関することで参考になったか否かは存じませんが、世の中には知識も腕も通用しないことがあります。そのときは胆識以外、その打開する方法がないように思います」といって話を締め括ったのである。
 秋月氏の言葉には説得力があった。私はこの人の話を聴いて、襟を正さなければならなくなった。

 この席上では、秋月丈太郎氏は一足先に退散したが、私の脳裡には、その余韻が尾を曳いていた。
 根気よく、諄々に説得するという地道な行動が功を奏したように思うのである。もうそこには粉飾以前の誠実な数字こそ、人を動かす原動力であるということを見せ付けられた思いがしたのである。

 この日、各々は自分の塒
(ねぐら)に帰って行ったが、何か考えさせられるところが多かったようである。

 ─────復
(かえ)りの車の中である。
 「あたし、秋月さんのお父さんの話きいて、なんだかしんみりしちゃった」
 由紀子が運転しながら、今の心境を吐露した。
 「胆識、そして時務の対処の仕方。生半可な覚悟では果たせそうにありませんね。世の中には相当なキャリアを持つ苦労人がいることを思い知らされました」
 「同感ですわ」
 「さて、胆識。これは如何なるものか。胆
(きも)という以上、胆力のことでしょうが、なにかそこには人間の精神活動に秘訣があるようですね。これからの当面の課題です」
 「あたくしたちは、まだまだ苦労が足りないと言うことでしょうか」
 この日は、しんみりとしたいい話とともに、これから先の方向性があるように思われた。

 「これからは退屈とも絶望も、そんなものやっている閑がありません」
 「あたしね。もしかすると胆識って、理想とか、志しとか、そういうものと関連しているのではないかと思いますわ。物事をよく見る人を見識がある人というでしょ。もしその見識に理想とか志しが加われば、どうあんるかを、今、ふと感じたのです。そうなると、それはどうなるのかしら」
 「見識プラス理想もしくは志しですか。なるほど、そうだったのか。これらは知識と結びつけば、見識となる。物事を読む判断力、これ、則ち見識。道徳的かつ心理的に判断をする力、これが見識。その見識に現実を処理して行く時務、則ちこれが胆識では?……」
 「そうかも……」
 「人にはそれぞれに様々な利害や打算がある。損得勘定がある。みな自分が一番可愛い。自分を最優先に考える。そのために議論すれば白熱し、自分の意見を最初に押し通そうとする。しかし、この意見を調整して、更に話しを先に進めて行くのが、もしかすると時務、つまり胆識では……」
 「現実を判断する決断力かしら?」
 「そのようですね、見識だけでは総てを調整して先へ話しを進めて行けませんからね。
 しかしこの寥々
(りょうりょう)たる極小値、如何に養って行くべきか、難しいですね。こういうもの、本を読んだところで分かると言うものではないですからね、実践を経験していなければ……」
 この日、また訳の分からない課題が一つ殖えた。

 「それにしても、松子ちゃん、この頃、特に変わったと思いませんこと?」
 「変わったというと?……何か、異常か、病気のようなもの、出ましたか?」
 「そういうのじゃなくて、人間的な急速な変化、そして成長。例えば心の表現の表情などにも」
 「どういう表情です?」
 「自然な表情。そして女としての優しさと美しさ。その美しさの中には、高貴が隠れていたような……」
 「高貴ですか……」そうかも知れないと思った。だいいち生まれが違う。
 由紀子はその違いに勘付いていたのである。女の勘というものだろうか。
 「最初、あなたの実家の屋根の上で会ったとき、あの子の表情は自然ではなかったわ。故意に作られたようで何は不自然だった。ところが今はそれが自然で、中から自然の可愛らしさが滲み出て来ている。表情が普通の少女に戻ったような、そういう感じの女の子。はじめは遠縁などと作っていて、素性を隠していたけど、結局作ったことで、本当の正体はいまでも解らず仕舞い。あなた、本当は彼女が何者か知っていたのでしょ?」
 「これまで話した通り、没落した旧華族の家ですよ」
 「それは聞きましたが、他に何かあるでしょ?」
 「知らないとは言いませんが、松子は緋縮緬の渡り鳥であることは、あなたも見たでしょ。正体はおそれ入谷の鬼子母神の、あれです」
 「でも、渡り鳥を、調教してしまった影の黒幕
(フィクサー)がいるように思うの。よく言えば学習させたというか、悪く言えば、よく改造してしまったというか、そういう人が」
 「誰ですか?」
 「あなたですよ!」
 「それが僕だと言うのですか。いやだなァ、ああいう宇宙人のような異才を持つ人間を、この世で改造してしまうほど、そういう凄腕の調教師はいませんよ」
 「でも、山師だったら、してしまうかもね。あたしね、あの子の変わりぶりを見て、この頃、あたし自身も何だか丸め込まれて、調教されているように思い始めましたの」
 私の貌を覗き込むように言った。
 「おまけに、山善プランニングの取締役専務にさせられてしまったわ。あたくし、会社経営の才能はありませんのよ。だいたいねェ、山善プランニングって何の会社ですの?これが、全く正体が掴めませんわ」
 「そんなの、分からないで諒解したのですか。ずいぶんと軽率ですね」
 「軽率と言っても、あなたが、あたしを型に嵌めたではありませんか」
 「僕はあなたが100%理解して、心から喜んで、自ら進んで承諾したものと思ってましたよ」
 「そういう説明は、一度もなかったではありませんか。あたくし、あなたに、完全に丸め込まれて、ほぼ無理矢理、強引に、力ずくで署名捺印されましたわ。説明って、いつ、して下さいましたの?」
 「そういう強姦魔のようなこと言われたら困るなァ。会社の定款
(ていかん)を読んだら、業務執行上などの趣旨が述べられていたでしょ。それを読んで、十分に理解したとばかり思ってましたよ。じゃあ、それを、してない。まさに軽率ですね、軽薄ではありませんか、実に拙(まず)いですよ」
 「拙いって言ったって、その時間と言うか……、あたくしも多忙です」
 「それは多忙にかこつけた怠慢。あなたのその軽率さ、やがて詐欺師に利用されますよ。田舎の医者が詐欺師のペテンに嵌まって、まんまと財産を身ぐるみ剥がれる、あれですよ。早く気を付けた方がいいなァ」
 「十分に気を付けていても、廻りに、その種の口車に乗せる山師がいるではありませんか」
 「でも、一家に一匹、そういう山師が居ると、退屈も、絶望も、する暇がありませんからねェ。当座の退屈しのぎにはなるでしょう」
 「あたし、益々あなたという人間が分からなくなってきますわ。どう理解したらいいのでしょ。もう、半分以上、将来を絶望しかけていますわ」
 「そういう結論は、早計だなあ」
 「あまりにも回転が速いから、軽率も早計も判断する閑がないではありませんか」
 「併せて、退屈も絶望すする閑がないとなれば、これで万事、善しではありませんか」
 「ひとつ教えて下さい。だいたい山善プランニングって、どういう会社なんです?」
 「まだ分かりませんか、実体の無いペーパーカンパニーなんですよ。体裁だけの株式会社。つまり、登記書類の上で存在するだけで、事業所や従業員を有しない実体のない会社です。一般には幽霊会社と言う名で知られている会社にことです。法的な手続を踏んでいない名前だけの会社、または名前だけ登録してあって実際の活動が行われていない会社かな」
 「それは詐欺の手段に使われる会社ということ?」
 「わが社は、そこまで低俗ではない。高級ではないとしても、活動は十分にしていますからね。表面上は実体の無いペーパーカンパニーを装っていても、現に資金調達をしたり、社長以下、登記した場所に従業員をいて仕事をしている。これは詐欺を働いているのではない。歴
(れっ)きとした営業活動をしている商行為です。
 正体はペーパーカンパニーを装った、また、それを隠れ蓑にした実体を有する会社なんです。現にいまでも工事を行って、本社社屋を建造中で、労働収益を齎す会社活動をしているではありませんか」
 「なにか、その辺のところに危険な臭いがするわ」
 「それは、あなたの理解不足でしょう」
 「その一言で、簡単に片付けてしまうようなことではないと思いますが」
 「山師は詐欺師でないこと理解して頂ければ、きっと下駄を預けて、大船に乗った気でいられますよ。転覆しませんから安心して下さい」
 「是非、そう願いたいわ」
 「これまでは順調です」
 「これからは?」
 「順調の筈です」
 「筈とは、希望的観測においてですか?」
 「そこはそれ、なんと申しましょうか、一寸先は闇ですからね、僕のレベルでは未来予測が出来ません」
 「じゃァ、あと一つ。どうやって会社を設立することが出来たのです?」
 「簡単ですよ。本屋にいって『株式会社の作り方』という本を買ってくるでしょ、それを松子に読ませて、本人が理解したら法務局に行かせて、法人登記させたのです。落度はありません。そうでね、この場合の費用と言えば、書籍代千五百円と、登記に関しての印紙代だけだったでしょうか」
 「本当に呆れましたわ」
 「どこに呆れたのです?」
 「だいたいねェ、登記とか法律手続きに関することは、司法書士か弁護士に任せるものでしょ」
 「普通はそうでしょうね。しかし、松子が退屈してはいけないと思ったので、法人登記に関して勉強をさせておいたのです。勝手の覚えて、勝手に登記してきましたよ。知りたいことは、みな本に書いてある。なにも不思議がったり、呆れたりする必要はありません」
 「こう言う話を聴いていると、あたくし、自分が益々無能に思えて来ますわ」
 「それはご謙遜でしょう、あなたのような頭脳明晰な方が」
 「いいえ、松子ちゃんには遠く及びません。あの子の足許
(あしもと)にも及びませんわ。それに、ここまで来ると、もう退屈する閑など何処にもありませんわ。これからは毎日、ハラハラ・ドキドキの訳の分からない活劇が始まると思うと、何だか憂鬱になってきますわ」
 「では次は、憂鬱を退治してご覧にいれましょう」
 「あたくし、最近、疲れているのかしら……」
 「じゃあ、気晴らしに、わが社も近々、ご重役の方々と社員一匹を引き連れ、研修を兼ねて慰安旅行でも始めますか。嬉野温泉なんかに行って、芸者でも挙げてパッと派手に」
 「そのお金、どこから出るのです?」
 「出ませんが、捻り出せばなんとかなるでしょう」
 「だいたいあなたは楽天家というか、極楽トンボというか、どこか世間とは完全にずれていて、社会の適合枠から脱線しているのですね」
 「そうでしょうか」
 本当は楽天家のように見せ掛けて、水面下では水鳥が忙しなく足を動かして、湖を悠々
(ゆうゆう)と渡って行く「振り」をしているのだぞと言いたかった。まだ、彼女は松子ほど世の中のことを知らなかった。しかし知らないままに、人生を渡っていける。生きるに問題はない。しかし、それだでいいのだろうかと思う。
 これからの課題を前に、解決するべき問題は山積みされているのだった。由紀子は水鳥の湖面のしたに存在する足の動きを知らなかった。湖の上辺だけを視ているのである。

 「でも、あたし。あなたが社会の適合枠から食
(は)み出していても、何かそこに、不思議な人を惹(ひ)き付ける吸引力があるのよね。そういうの、カリスマというのかしら……。
 多くの人が向いている方向を向かずに、正反対を向いている。世間に習って、右へ倣
(なら)えもしない。人に笑われようとも自分の価値観を曲げずに、頑迷と言うくらいそれを貫き通している。
 そして少数派に甘んじて、変に胸を張ったところがある。そこが、多くの人にない特殊な人間としての魅力かしら……」
 「僕は軍国主義に繋がる全体主義の軍靴の跫音
(あしおと)が嫌いなだけです。このまえ仕事で東京に行ったとき東京駅の八重洲側でビジネス街に向う、朝の通勤時間などみていると、同じようなダークスーツの制服を着たサラリーマンの靴音が何故か軍靴の跫音(あしおと)のように聴こえるのですよ。同じ楽譜の音階のように正確なリズムを刻むメトロノームのような音……。
 あの、会社に急ぐサラリーマンと見ていると、男女ともみな同じようなスーツを着て、同じ動作をし、同じ方向に向う。ザック、ザック、ザック……と彼らが立てる跫音は、なぜか軍靴を髣髴とさせる。そして終業すると、今度は誰もが、居酒屋へと急ぐ。同じ品の料理と同じ酒を飲み、そこで、日一日の憂さ晴らしをする。それは決して悪いことではないが、誰も彼もの同じ構図の中にあって同じ行動をする人間牧場の行為には、どうも僕は馴染めないのですよ。だからといって、その種属の右へ倣えしない者の個性を、異端者として、嘲笑するのは如何なものか……と思うのです」
 「そういう点は、あたくし個人としては、嫌いではありませんわ」
 どうやら彼女も、大都市の同一行動は好きではないらしい。しかし社会の一員であることも崩さない。

 「無理しなくていいですよ、お追従が過ぎると、辛いところがありますからね」
 「これは、あたくしの感性で判断しているのです。そこまでは無理をしていませんわ。ただね、あなたは躰の何処かの毒を持っている。それも劇薬のような猛毒。その毒で時に、周囲の人を巻込み痺れさせている」
 「危険だったら離れてください」
 「でも、人間は危険に惹かれるものでしょ。そして毒には痺れるもの。その痺れた被害者に、松子ちゃんも入っていたのね。彼女の急激な変化。もしかすると、その毒の所為
(せい)ね。特に劇薬は、特効薬として使われるからかしら……。彼女の場合、普通の薬では効かなかったと思うわ、劇薬でないと」
 「そういうものでしょうか?……。なんだか褒
(ほ)められているようで、なんか、下げというか、オチがあって、貶(けな)されているような……」
 「でも、あたくしは厭
(いや)でないわ。毒の中毒に罹ったみたいとも思う好奇心は健在ですから。松子ちゃんも同じと思うわ。彼女にも、何処か共感するところがあったと思いますわ」
 「そこまで変人奇人のように言うと、本当に変人奇人を遣っていいような、その種属の特有な綱渡りを」
 「それは困ります。自分では、その辺のことが分かっていないのですね」
 「さあ、どうでしょ。考えたこともありません。また、そういう閑もありませんでしたからね。僕は子供の頃から、人の好き嫌いが烈しく、何というか、感受性の次元が違っていましたからね、多くの人とは共通項を持たなかった。何処か食い違っていた。
 家は、父が死んでから没落同然。いや、それ以前に没落していた。家は貧しく、貧しいからと言っては苛められ、服が身窄
(みすぼ)らしいと行っては蔑まれ、周囲から囃(はや)し立てられた、然(しか)も集団で。
 そういう僕を、あなたも何度か見たのではありませんか。おそらく暗愚な僕に近付いて、なにかと世話を焼いてくれたのは、そういう僕を哀れに思ったのではないでしょうか。あるいは同情からだったかも」
 「いけなかっかしら?」
 「そうは思いません。それには、感謝しているというか、むしろそのために余計に囃
(はや)された。周囲から羨望を買われたのでしょう。僕のような人間は余計に憎くなりますからね。
 勿論、囃された方の僕は、全く無傷ではない。傷付くけれど、我慢することも覚えた。辛抱して、今を遣り過ごすことも覚えた。後学のために、いい勉強になりましたよ。そういう集積が、いつの間にか堆積して、それが濃縮されれば、毒になるかも知れません」
 「それで、本能というか、生命力がますます燃え盛ったと言うことかしら」
 「それもあるかも知れませんが、自分の持って生まれた習性として、本来が自由人であるため、型に嵌められて行動させられるのが厭なのですよ。どこまでも、自分らしく自由にありたい。そのためには社会の底辺で燻
(くすぶ)っていても構わない。それが貧乏を、自ら所望した理由でしょうか。
 自由人は知識を詰め込む、戦後の現代社会に違和感を覚えましたからね。学歴社会は御免だった。
 したがって、僕の場合は『大学は出たけれど』と言うやつで、知識は殆ど詰まっていない。中身がない。
 そのうえ大した学も無い。こうなったのも、管理社会の危険に逸早く気付いためでしょうか」
 「それで幸せになりました?」
 皮肉な切り返しだった。
 気付くのと幸せとは関係ない。気付くことは、幸せだけに気付くとは限らない。不幸に気付くこともある。

 「だから大勢の全体主義に同じ方向を向かず、抗い始めたのは、小学校高学年の頃だったと思います。
 その頃、嬉野から転校してきましたからね。嬉野に居たときも、決して僕にとっては楽しいところではなかった。棲んでいた家が姉のところで、芸妓の置屋でしたからね。学校では、卑しいところの子供と看做されていましたよ。芸妓の家は卑しい職業の子供だったのです。それは生涯忘れませんよ。僕は何故、人の卑しさを職業に結びつけるのか、その頃は暗愚のため、正確には把握できなかった。
 しかし成長するにしたがい、その意味を理解して行きましたよ。芸妓志望者を集め、そこで芸を仕込み、座敷に送り出す。姉はそういう職業の取り締りをしていた芸者に席を置く、置屋の女将でしたからね。
 つまり、背景には色街特有の如何わしさがありますからね。僕もそういう職業は、人に誇れるものでないと言うことは承知していましたが、家の中は、色街の臭いはなく、姉は厳格な人でしたからね。むしろ素人衆の家より、厳しかったように思いますよ。朝早く起こされ、寝坊は赦されず、そういう躾は厳しかったように思います。
 しかし、こちらに転校して来る際、卑しい職業の家の子という蔑みの一筆があって、僕があの当時の担任に目の敵
(かたき)にされていたのは、あなたもしばしば目撃したではありませんか。当時はね、なぜ僕だけがあのような苛め方を担任からも、クラス全員からも蔑みを受けるか、その理由が分かりませんでした。
 しかし、その後、中学・高校・大学と進む過程で、なぜ?ということは分かって来たのです。それは、卑しい職業の子供という烙印が捺されたからではないでしょうか。
 思えば、母の病弱は、こういうところまで顛落
(てんらく)していく、わが子をどんな思いで見ていたか、その心労も察します。そのうえ小学校に上がった頃から、親戚中を盥(たらい)回しでしたからね。その、わが子をどう検て居たのでしょう」
 「お母さま、本当に辛かったと思うわ」
 「親戚と言うのは、既に他人なんです。三親等以下の血はそれだけで薄くなる。そこには苗字だけで、血の繋がりは一滴もない親戚がいましたからね、もう、その頃から寂しい思いをして、他人の冷や飯を喰ってきましたよ。日々は耐え難い屈辱に繰り返しでしたからね。しかし、卑しい職業の子でも、姉の職業は決して卑しいは思っていませんよ。姉は今でも左褄を取っていますが」
 「あなたの生い立ちのパーソナリティーの一面を垣間みる思いですわ」
 「僕は所詮、哀れな仔羊です」
 「でも、健全であり、その生活は不自然ではなかったと安心しましたわ。つまり、あなたは不自然に順応できない人なのですね。大半の人が不自然に順応し、活力が燃えていないのとは正反対に、メラメラと生命に火が燃え盛っている。その火の焔
(ほのお)に惹かれて、何人かの少数派が集まって来るのかしら。
 あたくし、よく考えれば、あなた以上に鈍感だったかも知れない。いま思えばそう思うこともあるわ。知らぬ間に知識を詰め込まれ、管理される社会に順応してしまったのですね。知識の詰め込みが、結局管理社会の始まりだった。それを、あたしは気付かなかったが、あなたは早々と気付いていた」
 「そう思いますか……」
 「感性は健全に反応していたのですね。それが、子供の頃から管理されることを本能的に嫌がっていた。
 そう言う人は、他人の眼には異端者に映りますからねェ、そういう右へ倣
(なら)えをしない人は、落ち零れと看做してしまう。現代社会の見落とし点というか、恥部というか。だから不自然な社会に馴れてしまった人は生命力のエネルギーを早々と衰退させ、社会全体は早老現象に罹っていると思うのです。
 もしかすると、あなたの方が不自然に馴染めないだけあって、むしろ、あたし以上に健全であったかも知れない。もしかすると、松子ちゃんも健全に戻ろうとして、あなたの魅力に惹かれて変わったのかも。
 人間としての基本というか、大切な野性の感受性を取り戻そうとしているのかも知れない。彼女、幸福の価値観が、あたしとは違うのかも知れないわ。少なくとも、お金や物に転ぶとも思われない。士は己を知る者の為に死すというではありませんか」
 「僕はそんなに偉くない。人から命を投げ出されるほどの人物でもない。一介の濁貧者ですよ。溢れ者で落ち零
(こぼ)れの、まともな人間でありませんからね。ただの懦夫(だふ)ですよ。人から惜しまれるような人間ではありません。況(ま)して知遇ときたら皆無です。このような人間は認めませんからね」
 「でも、あなたには、どうしても認めざるを得ないところがありますわ。あたくしも、実は認めたくないのですが、どうしても認めざるを得ないところがあります」
 「だったら認めないで下さい」
 「そうもいきませんわ。あなたは生命エネルギーを、自分のために燃やしているのではないことです。そんなことは考えていない。自分の勘定が入っていない。これは認めざるを得ないわ。
 上辺は痩せ我慢して、欲しいのは山々だけれど、変な見栄を張って『バカにするな』と怒鳴り返しているようなところがある。それは、あたくしとの接し方でよく分かるわ。現代の欲望に反撥
(はんぱつ)しているところがありますわ。まるで、餌付けで手懐けられない狼か、イリオモテヤマネコのようなところが……。
 例えばねェ、あたしが買って上げたお酒。また一本も空けていない。そして自分では、質の悪い安酒を飲んで痩せ我慢している。だから、そういうところが妙に惹き付けるのですわ。あたくしにも、変人奇人の趣味があるのかしら」
 「松子は、どう思います」
 「あの子は完全に変人奇人趣味ね。そうでないと野性の毒は、調合できないでしょ」
 「凄い形容ですね」
 「もしかすると、松子ちゃん。野性の毒を調合する技術を学習したのかな。彼女、まだ野性を失っていないから、修羅場に立ち向かって行く力を持っているのね。あの子の側面に、なぜか、野性のしなやかで敏捷な牝豹
(めすひょう)を見てしまうの」
 「それ、見たのですか!」
 「そう感じるの」
 もし、松子が以前『ヤッパの俊』の異名をもつ刺客と知ったら、どう思うだろうか。それに私の命を付け狙っていたことも。だが、それは流石
(さすが)に話せなかった。今は知らない方がいい。
 だが由紀子は女の勘として、松子を修羅場に立ち向かって行く力を持っていると感じてるのは、さすがというほかない。


 ─────それから数日後、由紀子は、このたび東京で行われる小児科医学連合会の学術会議に、小児科部長と随行して上京することになった。
 昭和47年当時、北九州から上京するには今日の異なり限られた交通手段しかなかった。最も簡単なのは、鹿児島発東京行きの寝台特急か、長崎発東京行きの寝台特急で、北九州・小倉駅を午後5時前後の寝台特急に乗れば、翌朝東京駅に午前7時過ぎくらいに到着する。これだと14時間前後懸かる。後は山手線に乗って目的地まで行けばいい。
 また新幹線を利用する方法があったが、東京に出るには在来線の特急で新大阪まで出て、そこから東京行きの新幹線に乗る。小倉・新大阪間で約7時間、新幹線が新大阪から約4時間前後であり、所要時間は約11時間前後である。
 次に飛行機を利用する方法で、板付
(福岡)空港から羽田までで約2時間半前後である。更にフェリーと新幹線の組み合わせて、小倉日明港から神戸まで日明港を午後5時に出向し神戸に翌朝10時に到着し、在来線と新幹線を乗り継いで約5時間前後懸かった。あるいは宮崎から川崎まで外洋を走る1万屯クラスのフェリーがある。どれも東京までは約一日仕事であった。
 これらは交通機関そのものの乗っている時間よりも、駅や空港までの乗り継ぎの時間にかなりの時間が掛かるためである。
 このとき由紀子は、福岡から東京まで飛行機で向かうことになった。
 学術会議のことを聞いたのは急遽のことで三日前だった。小児科部長が予定随行者が行かれなくなり、突如指名されたと言うのである。三泊四日の予定であるという。この予定に、女子医大時代の友人に会うために一日延びて四泊五日という。

 私には大スペクタル事件で大怪我をした汚点がある。危ない綱渡りの科
(とが)である。それが心配であるという。看病をしてもらった関係上、由紀子の少し構えたような眼差しが、私へ意識しているようでもあり、それが女の、それだということも少しずつ分って来た。これをどう振る舞うべきか。
 そうしたことに気付かない私ではなかった。
 況
(ま)してや、女の乳房や腰の丸みを間近にする度に、私自身も自然に反応して行くのであった。
 しかし未だ一線を越えていない痩せ我慢にあっては、由紀子と言う女が、それ以上に肉の対象として特別な感情に結びつかないのも、また事実であった。それは小学校以来の彼女に対しての身近さが邪魔をしていたのかも知れない。
 由紀子は、より経済感覚が敏感で、一見調子外れでいながら、どこか所帯染みたところがあった。その一方で母性は旺盛であり、現実感や情の深さがあり、若僧の私には些
(いささ)か苦手に感じるのである。
 何故だろうと思う。
 当時、私と同い歳の女の24歳と言う年齢としては、今から考えれば、恋愛に不器用である一方、それだけ素直で純情で、それを私は可愛いと思うのであった。また、そんなふうに女の物言いをあれこれ臆測したり、感想を論じたりする私自身に、実は唾棄
(だき)したいほどだった。

 一方私は、なんで小児科部長のオヤジが急遽指名したか、それが心配であった。心配の思惑はそれぞれに異なっていた。また自分のことは棚に上げている。
 由紀子見送りに、松子を伴って板付空港まで行くことになった。物見遊山の感覚である。


 ─────小倉発・佐世保行きの特急列車『みどり』の車内である。この日、三人はこの列車で博多まで向かった。面々はそれぞれに自分の所持品を携帯している。私だけは手ぶらである。そうかといって、彼女たちの荷物持ちも、些か憚られる。そこまで提灯持ちはしたくない。
 由紀子は小旅行用の小さなスーツケースを、また松子は背中に小型の黒革のリュックを背負っていた。この三人で、がら空きの一等車
(グリーン車)の一劃(いっかく)を陣取っていた。

 「こちらの下手な綱渡りの曲芸師さん、よく見張っててね」首に紐付けの依頼である。
 「でも、わたし、朝から晩まで24時間、見張っておくの不可能です。下手な曲芸師が落ちるのを警戒するより、曲芸師さんに落ちても丈夫な落ち慣れの体質を養わせる方が先決問題じゃァありませんか。綱渡りをさせないと言うより、勝手に遣らせておいて、落ちたら落ちたで丈夫な体質で、直ぐに怪我も治る。
 つまり予防医学的に考えるのではなく、落ちても直ぐに治るというのはどうでしょ。こちらの方がよほど、しぶとく生き残れると思いますが。そのうち上達すれば、落ち方も上手になって、落ちても怪我をしない落ち方を会得するのではと思いますが、どうでしょ」
 「それで、ハラハラ・ドキドキは解決するかしら?……」
 「少なくとも落ちても、死なない程度のスタントマンくらいになるのでは」
 「今度は落ちるスタントマンをやってもらうの?」
 「綱渡りは落ちないでやると言うものでなく、最初から落ちると考えて、落ちるスタントマンに対して、寛大になっては如何でしょ。何事も訓練次第と思いますが」
 「松子ちゃんも、とんでもない発想で、恐ろしいこというのね。もうこの頃は、誰の意見が正しいか、分からなくなりますわ。これまでの価値観が、今までのものはすっかり色褪せて、固定観念や先入観のように変質してしまいましたわ。だいたいね、松子ちゃんみたいに、本を読んだだけで理解する人が居るなんて、思ってもみなかったわ。そういう人が居ることも知らなかった。確かに本には知りたいことがみな書いてあるとはいっても、一読で殆ど理解するという人、今までに見たことないんですもの。奇蹟を見るみたいで」
 「でも、観客の多くのお客さんは、落ちるか落ちないか、ハラハラ・ドキドキの奇蹟を観るために、木戸銭払って手に汗握るのよ」
 「本当に落ちたら?」
 「そのときは諦めて下さい」
 「それって、白状じゃない?」
 「でも落ちたら、ただの物体ですから」
 「だから、させないようにして頂きたいの」
 「だったら、出来ないように、首に紐を付けて柱かなにかに繋いでおくことですね」
 「はい!質問。あのッ、一言いわせて下さい。首に紐を付ける?そして柱に縛り付ける?冗談じゃない!
 そういうのは、ポチの世界じゃないですか。家畜のような扱いをされては困るなあ」
 「でも縛り付けないと、糸が切れた凧のようになりますわ」
 「じゃァ、電話で監視しておけば……。紐をつけられないでも、眼に見えない紐がついているから、同じでしょ」
 「それもそうね」
 こうして、結局は紐を付けられてしまった。

 「次に奇蹟について一言!」
 「どんな?」
 「世の中、奇蹟なんて至る所で起こっているではありませんか。日常茶飯事です。しかし、科学万能主旨を固く信じている科学者はそれを認めたくないのです。つまり、世の中、全体が知識と知性が完全に分離してしまったからです。知識はあるが知性がないと言う人は、今ではゴマンと居るではありませんか。
 つまりです。世の中、全体が科学信仰のために、この信者からインテリ無知が出現し、その無知から、今度はインテリ無恥が登場することになった。あなたも、インテリ無恥になることだけは、お慎み下さい。知識があっても常識がないと言う結末を招いてしまいますからね。くれぐれもご用心を」と私が些か皮肉を込めて切り返した。さて、何処まで気付くか。

 「そこまで露骨に言われると、あたくし、何だか自分が恥ずかしくなって参りますわ」
 「それでこそ、恥を知る、救われる箇所が残されている証拠。恥を知らねば、間違いなくインテリ無恥になってしまいますからなァ。本来、人間には便利で快適な暮らしなど、必要ないのです。そういうのは、最低限度揃っていれば。こういう事ばかりを追い掛けると、金儲けが優先になり、儲けた金を他に還元せずに自分自身のために遣って恥知らずになりますからねェ。そして損得勘定で物事を考える。そうなると、負け戦などしなくなって、知識が人の道を混乱させますからね」
 「松子ちゃん。この岩崎君の独断と偏見の有難い説教擬き。これ、どう思う?」

 「現代の知識優先主義、だいたい何にそれを使うのか、明確にされていないと思うのです。ただ知識を漠然と利益追求のために遣ったり、人より、いい生活をしようと思って、出し抜いたり、単純で素朴な朴訥精神を破壊したり、複雑にして解り難くしてしまったと思うのです。そのために先ず知識格差が顕われた。
 それは、お金持ちが益々お金持ちになり、貧乏な人が益々貧乏になって行く経済格差にも匹敵する。
 だから、インテリ無恥は知識の正しい利用の仕方を知らず、自分のために遣ってしまう。自分の還元のために使い、それで知識の劣る人を知識階級化の中で啖
(く)って行く。それが人間としての尊厳を破壊し、混乱に拍車を掛ける。今の社会は完全に根底から混乱させる要因を作り、何が偉く、何が偉くないかも分からなくなってしまった。そして今では、偉い人の基準が、仕事の能力において有能な人を偉いと祀(まつ)り上げ、また業績を上げる人が偉い人となり、こうなると、業績を上げるためには、人間の尊厳も自分の誇りもかなぐり捨て、そういう恥を、恥とも思わないインテリ無恥が偉い人になってしまったように思うのです」

 「そうなると、世の中、どうなるのかしら?」
 「偉い人は、結局は業績を上げる人なんでしょ。そのため、人を欺いたり、陥れたり、また捏造でも、恥も外聞も平気で遣るようになります。そのためには知性無用となり、知識のみあれば、人を制して、偉い人の世の中が出現します。これ、いいと思うのでしょうか、それとも、悪いと思うでしょうか。そして人間としての人格は何処に行ってしまうのでしょう?」
 「ちょっと訊いてもいい。だいたい松子ちゃん、そういう知識、どこで仕入れるの?」
 「本屋の立ち読みです」
 「それだけで、全部理解してしまうの?」
 「本って、読んで理解するためにあるのではないでしょうか。読んで理解するだけ。他にあるでしょうか」
 「あたくしには、それが全く理解できないというか、信じられないというか、読むだけで」
 「だから、こいつは、奇蹟がセーラー服を着ているようなものなんです」
 「まるで遠い別の惑星の異星人を見ているみたい。もし来生が在
(あ)るとして、今度は松子ちゃんに教えを乞うてみたいと思うわ」
 「あなたは科学者の端くれでしょ。来世なんて信じるのですか?」
 「いいえ、信じませんけど、松子ちゃんを見ていると来世も、死後の世界も信じたくなりますわ」
 「たいした変わりようですね。進化したのかな」下手なお追従を言ってみた。

 「この何ヵ月間か、あたくし、これまでに全く経験したことのない異境の世界の実体験をしましたわ。それは誰が原因かというと、誰でしょうね。その誰さんが、大河ドラマ並みの大スペクラル活劇をやらかしたものですから、なんだかそれ以来、あたくしの医術の腕も相当に上達したみたい」
 「よかったじゃァりませんか」
 「他人事のように言わないで下さい。誰のお陰なんです。それによ、訳の分からない取締役専務などを遣らされる羽目になって、何が何やら分からなくなって、もう混乱の極地。こう言うことが、あと二、三回も起これば完全に脳が破壊され尽くしてパンクしますわ。そうならないように、あと奇蹟に縋ることだけ」
 「そんな、大袈裟な」
 「少しだけ、横から口を挟ませて頂いていいでしょうか」松子が差し挟んだ。
 「構わないけど」
 「こういっては、なんだけど、由紀子さん。随分と平和な家庭に育ったのね。まるで戦争を知らない子供たちみたいで。わたしは、健太郎兄さんや由紀子さんより、六年遅れて生まれて来たけど、物心ついたときから父や母の顔、覚えていないのです。父は戦犯容疑で巣鴨刑務所に収監されていたし、それから間もなくして絞首刑が執行され、その一年後には、母も心労のために病死したわ。だから顔は覚えていないの。
 物心ついたときには、俊宮家の側用人の子平と言う人に連れられて、全国を行脚の旅に明け暮れ、誰かに追われているみたいだった。そういう戦争のような世の中で、世の底辺として生きて来たの。
 でも、それが悪いというんじゃないわ。底辺にも、それなりに愉しみがあったわ。そして世間師に紛れて、裏社会のことを知った。健太郎兄さんが言う陋規の世界は『残酷』で『修羅』の一言に尽きた。そういう生活をしながら、側用人に育てられた。そしてね、つい最近までね。驚かないでね」
 「なあに?」
 「実はね、健太郎兄さんの命を狙う刺客をしていたの。殺すように指令を受けていた」
 「えッ?えッ?……、刺客?……」
 「だから、驚かないでねと言ったでしょ。つまり人殺しの請負業。でもね。健太郎兄さん以外、まだ本格的に人殺しをしようと思ったことないの。このときは背に腹を変えられず、五万円でこの仕事、受けたの……」
 「ですって、桜井さん」
 「えッ?えッ?……なにをですの?」由紀子の眼が点になって、宙に浮いていた。

 「だってそうでしょ、いいですか。どうして僕の命が、たった五万円なんでしょ。余りにも安いと思いませんか。あなたは、これに腹が立ちませんか。バカにするな!と言ってやりたいと思いませんか。あなたも一緒になって依頼業者に抗議してくれませんか。プラカードでも持って、極道の事務所の前で、五万円で発注した者どもに、もっと値上げしろとシュプレヒコール挙げてもらえませんか」
 「えッ?えッ?……。混乱・混乱・混乱……、もう理解できない。ここまで来ると、もう、あたくしの理解の許容範囲を超えています。さっぱり理解できませんわ」
 「それは自己学習が足りないからです」
 「そういう問題ではないでしょ。あなたと話していたら、どうして、こう話が噛み合なくなるのかしら」
 「じゃァ、僕は病院にでも行きますか。さっそく入院手続きをとって下さい。労災手続きを。
 ああ、そうそう、今回ね、松子が大手柄立てて、社会保険庁に失業保険その他、労災手続きがスムーズにいく特約契約して来たのです。これからは安心して、多額の入院費に怯えることなく、堂々と怪我でも事故でも出来ますよ。安心して下さい」
 「あたしは、そういうことを言っているのじゃありませんわ。そもそも刺客とか、陋規とか、裏社会とか、世間師などの業界用語が理解できないのです」
 「そしたら、松子を家庭教師に雇って下さい。その世界に通じていますから」
 「だから、そういう問題じゃないと言っているでしょ。あたくしは完全に無菌状態で、世間の悪い空気に対して、免疫力がゼロなんです。あたしには、耐性が無いのです、お分かり?」
 「だったら、わが道場へ是非入門下さい。世間師並みに、ベキバキと免疫力でも耐性力でも、付けてあげますから、超格安料金で」
 「松子ちゃん、どう思う?」
 「世間では、お肌の曲がり角は、25歳からだというから、あと一年ですよ。医学的に、どうか知りませんけど、これまで見聞して来たところによると、この通過地点でお手入れを放置すると大変ですよ。確り締めておかないと、弛む一方と言う醜怪な事実を目の当たりにして来ましたから」
 「えッ!えッ?そうなの。どうしたらいいのかしら……」
 「お急ぎになった方がいいかも」
 「だったら、急がなくては」
 「そう、バスに乗り遅れたら、取り返しがつかなくなりますから、締めて耐性を養って下さい」
 由紀子は、松子から完全に話題の方向点をすり替えられて反らされ、別レベルの問題へと誘導されていた。


 ─────空港の見送りロビーである。
 当時、板付空港に行くには博多から在来線に乗り換え、博多から竹下まで行く。竹下駅から徒歩かタクシーで空港までとなる。現在は地下鉄空港線があるので空港に直ぐに到着するようになっていたが、当時は乗り継ぎに些か不便があった。おおよそ半世紀弱ほど前のことである。
 さて、問題はこの点であった。
 このたび東京で行われる小児科医学連合会の学術会議に、小児科部長と随行して上京するというこの勿体付けた何やら怪しい口実が、私には解
(げ)せなかった。
 なぜ、わざわざ由紀子が同行せねばならないのか。同行者は、なぜ駆け出しの医者なのか。他に有力な古株は幾らでもいよう。それをなぜ、由紀子が指名されたのか。
 医学会の学術会議……。テーマは尤もである。庶民には及ばぬ尊大な体裁もある。学術会議。お偉いお方の集まりである。
 だが、この種の会議は浮気旅行がセットになっている。それを旅行の口実にする。こういう会議を製薬会社がお膳立てすることもある。故に浮気旅行には医師が多い。他は浮気旅行をするほど高額な給料はもらっていない。
 駆け出しの医者ならサラリーマン並みであろうが、役職に座る医師はそうではない。物見遊山するほどの金はある。製薬会社からの、袖の下もある。泡銭も入る。それなりに資金は潤沢である。その資金の捌
(は)け口として、駆け出しの医師の由紀子が狙われても不思議ではない。彼女の美貌なら当然だろう。

 「これは何か訝
(おか)しいな、そう思わないか」
 私はすかさず松子に訊いた。
 「思う」
 「あの、小児科部長というオヤジ、どうみても顔が性器だな。おれは医者の子弟相手に家庭教師して来た関係上、あのオヤジは顔の性器に併せて、尊大さがプラスされている。善人の皮を被った狼が、世間知らずの赤頭巾ちゃんを手込めにする構図だな」
 「それで、手を拱
(こまね)いて傍観するの?」
 問われれば、闇に葬られる、その危惧は大である。
 「今の本人に、どう忠告する?」何とも情けない訊き方だった。
 「あの窮地、傍観するには忍びない。さて、困ったら『ここ読めワンワン』の例の袋を渡しておくか」と、私のお株を取るようなことを言った。
 松子の言っているのは、『三国志』に出て来る諸葛孔明は、趙雲子龍
(ちょううん‐しりゅう)に劉備妻妾(さいしょう)・孫夫人を伴って、呉から退却するとき、「困ったことがあったら、この袋の中を見よ」と申し渡し、それを趙雲に渡しておいた。趙雲は呉兵に包囲されて困窮したことがあった。だが孔明のアドバイスで難を脱する。そのときに見た袋の中身と同じようなものが、もしかすると、私の場合は「暴虎馮河、その弊は乱」と取れたのである。
 つまり、松子によれば、「そこを衝け」と、提供された情報から読むことが出来たのである。

 「もし気付かなかったり、読まなかったり……となったら?」
 「そのときは、あのオヤジの手込めにされて、可憐な花弁風情は傷物になって、女にされるな。典型的なオフィス・ワイフに嵌められる最悪のコース。なったらなったで観念しろ」
 松子の言葉は段々荒くなっていた。平和ボケしている平和愛好者への怒りであったかも知れない。
 「おまえ、よくそこまで他人事と思って、しらけて物がいえるものだ」
 「しらけて第三者の目で検
(み)るから、結末が克明に予想できる」
 「忠告してやっては無駄か?」
 「彼女の顔、見てみろ。有頂天に舞い上がって処置無しだ。あれは、凡夫に多い自信過剰の自惚れ現象。
 世の中、これで餌食になる婦女子は多い。あれは遅かれ早かれ、いずれ手込めにされるな」
 「おいおい、恐ろしいこと言うなよ」
 「世間師の目で検れば、そういうのは資本主義の弱肉強食の側面にゴマンと転がっている。そしてこの毒牙から逃れることの出来る能力を持った婦女子は少ない。たいてい女にされ、以降、性交奴隷として身を売ることで、自分の地位と身分を、嵩
(かさ)挙げする研究学徒は多かった。健太郎の女も、結局はそれまでの自己顕示欲の強い女かも知れん、出世のためなら躰を売っても辞さぬと言うその種属かも」
 「おまえ、その辺の分析になると、シビアで恐ろしい判断を下すんだな。途端に夜叉になっている。松子の異能、恐るべしだ」
 「どうして欲しい?」
 「おれも勝負師として、この勝負、賭けてみたい。また、山師の勘の世界をな。しかし手を拱
(こまね)くのも拙い。なにしろ、おれの大怪我を治してくれた恩がある。恩は返す主義だ。借りっ放しにしない」
 「健気じゃのう、健太郎」
 「おまえ、またいつの間に、お姫さま言葉に戻った?」
 「先祖の声が乗り移って、定期的に出てくる。先祖帰りかな」
 「発作か」
 「そのようなものかも……」
 二面人格の二重性だろうか。
 「定期便でか、忙しいものだ。そこで、恃もう。勝負する!」
 「では……」
 松子は向った。

 「由紀子姉さん」
 「あら、松子ちゃん」
 「ほォ〜ッ、こちらの方は?」
 「ジャーン、妹です!」
 「これは驚いた。桜井君の妹さんですか。それに妹さんは県立T高校にお通いですか。さすが桜井君の家系は素晴らしい。優秀な方ばかりだ。それに美人の家系のようですね。妹さんもなかなかの美人だ。ところで、妹さんは何年生ですかな?」
 「高三です」
 「すると来年は受験ですなァ?」
 「はい」
 この、愛くるしいしおらしさと、可憐さを作った妖艶さに、オヤジは蠱惑された。
 「失礼ですが、どちらを受験されますか?」
 「東大理科三類です」
 「えッ?東大理科三類」
 「そこ、一本です。他は浮気しません」
 「なんと。ここまた、物をはっきり言う妹さん、さぞかし頭脳も優秀と言うことですか」
 「そうです、あたくしなんて足許にも及びませんわ。学校始まって以来と言われているくらいですから」
 「ほ〜ッ、それほどまでに。これは感激いたしました。それでは桜井君も鼻高々ですな」
 「いいえ、へこまされていて、いまではすっかり落込んでいます」
 「またァ、ご冗談を……」
 「遣り込められて、落込んでいます。歯が立ちません。私が中学に入ってABCを習っているとき、この子は小学校二年生のときにウェブスターの辞書、読んでましたわ。それに数学でも、今では大学受験の受験数学ではなく、合格後に大学の専門課程で習う『コーシーの微分積分学要論』とか『ルベーグの積分・長さおよび面積』などを遣っているんです」
 「ほッ……、すごいですねェ」
 「すごいを通り越して、異常です」
 「由紀子姉さん、ひとを化物のように言っちゃ駄目ですよ、知らない人が聞いたら、本気にしますから」
 「これはまた、なかなかのユーモアですね。こういう、ユーモアのある人は、医学上も頭の回転が早いとされていますからね。これは、将来が実に楽しみだ」
 「そうでしょうか」
 「まあまあ、姉妹仲良く。そんなに揉
(も)めないでください」
 「あたくし、毎日、嫉妬に怒り狂っているのです」
 「これは桜井君も、妹さんに負けずにユーモアがお得意のようだ」
 「で、センセェ」後ろに手を組んで、愛くるしい表情で迫った。
 「なんでしょ?」
 「どうして、由紀子姉さんを、お伴に?」
 「それはですなあ、医局ナンバーワンですからよ」顔色には明らかに迷いが浮いていた。
 この解釈はいろいろできる。
 「少し理解に苦しむ点も御座いますが、それはよしとして……」
 「松子ちゃん、なんで出てきたのよ」小声で叱咤するように言った。些か迷惑そうだった。
 「心配だから」
 「どんな?」
 「気を付けて。もし困ったら、これを。では、行くからね……」と、囁くように言った。
 松子はすみやかに由紀子の傍を離れた。総てを読み取った感じだった。炯眼の松子である、オヤジの意図を見抜いたのだろう。


<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法