死と、死後の事について、有るか無いか分からないけれど、死後の世界はあると考えることは、大事なことだと思っている。
“科学的”を強調する戦後日本では、死後の世界などないと考えている人が大半であろう。
霊の存在は、非科学なる迷信。そして生物は死ねば総て無に帰すると思い込んでいる。そう考えることを今日では「科学的思考」と考えているようだ。
今日の日本人ほど、死について真摯に考えなくなってしまっている。肉の眼で見える物だけが総て真実。見えないものは迷信で、非科学的と一蹴するのが、昨今の風潮のようである。
文明が発達し、知識が豊富になってくると、現代人はかつての古代人のように異能という感覚を退化させてしまった。視力自体を取り上げても、現代人は古代人に較べて闇の中を視る視覚が暗くなっている。しかし、そうした退化の一途にある現代人の中にも少数ではあるが、古代人と同じように異能力が退化せずに残っている人が居るようだ。つまり、そういう人は、普通の人には見えないものが見えているのである。人の死すら、その後、どう変化して、魂が元の世界に還っていくか、正確に見えていると言う。
肉体は滅んでも意識は残る……。
魂と言うものは、還元すれば「意識」と言ってもいい。その意識を、死後もこの世に居たときのように引き摺っていると、死後の意識体は還るべき場所に、真っ直ぐ復(かえ)って行けないのである。
しかし一方で、死後の世界はない。
そう言い切り、断言するのもいい。無神論者を掲げるのもいい。神仏は存在しないと言い切るのもいいのである。
しかし、「死後の世界がない!」「自分は無神論者!」「神仏は人間の作り出したもの!」であり、そんなものがあるわけはない。そして、われこそ筋金入りの無神論者と豪語する人がいる。その根性だけで、あるいは尊敬に値するものかも知れない。
しかし、である。
この種の無神論者の多くは、宗教への無関心者である場合が少なくない。無神論者ではないのである。
そういう人は、よくよく考えれば、「宗教への無関心者」と「無神論者」の違いが分かっていないのである。この意味が根本的に違うことを全く理解していないのである。
宗教への無関心者は、単なる無知か、宗教思想に対する怠慢者に過ぎない。
真の筋金入りの無神論者とは、神仏との永久的な体験を経験しているもので、その経験に基づいたうえで「神仏の否定」をしていることである。
だが神仏を肯定するにしても、また否定するにしても、最低十年以上は神仏に対して対決し、心の格闘がなければならない。否、その格闘は一生の課題であるかも知れない。それを早々と「科学的」という科学信仰の勢いに惑わされて、神仏を否定し、自称“無神論者”を豪語している人が少なくないようだ。
神は存在するのか。仏性はあるのか。これは人間はじまって以来の永遠の問いである。 |