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困ったときに開いてみる書 1


困ったときに開いてみる書






放下著とは、柵(しがらみ)を捨てることであり、「何も持っていない」という禅門の教えである。
 想えば、本来、人間は無一文ではなかったのか。
 生まれて来る時も無一文で生まれてきて、死ぬときも無一文で死んで逝く。この世の真理は、「捨てる」という現実の中にある。
 どんなに愛着し離し難い物でも、あるいは捨て難い物でも、「そこに捨てる」という行動の中に、その真実がある。捨てれば楽になると教える。


 何の気なしに開いた本に、心に刻まれる一節があった。人生にはそう言うことがあるものである。困ったときに開いてみる本とは、人間臭い人生の哲理である。お偉い学者先生の理路整然とした論理ではない。片言隻句の「人生譚」である。
 生温い、いま流行の恋愛小説や不倫小説ではなく、最初は強い反撥を覚えながらも、後に窮地に立たされて窮乏したとき、再び開いてみるような書である。人生を深く考えてみる書である。それは決して軽率なものであるまい。
 また、小難しい論理展開で、言葉を羅列した、長ったらしい論文ではない。心にストレートに響く、ほんの数行の短文である。一つの言葉や短い文章に、心から共感を憶えるものがある。
 これから、如何に身を立てていくか、如何に自分と社会が関わっていくか、如何に歳を取っていくか。そして最後は、如何に死すべきか。そういうとき、人は、人間形成に役立つ窮したときの心の拠り所を、ほんの僅かな短文に需
(もと)めるものである。


●1月1日

 好事魔が多し。何事も巧くいった。すること為(な)すこと、悉(ことごと)く、みなよく当る。幸運の連続に継ぐ連続……。人生には、こういう有頂天に舞い上がるときが、一度や二度はある。
 一切好調で、順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)のときだ。だが、側面には鬼門が口を開けて、墜(お)ちて来る者を待ち構えている。陥穽(かんせい)に要注意である。好事は、墜落の予兆を暗示しているからである。



●1月2日

 「あれは誰だったか……?」
 最たる原因は、固有名詞が思い出せないことがある。思い出そうとしても思い出せないのだ。
 これは記憶エネルギーの枯渇
(こかつ)である。枯渇は燃料切れから起こるのであろうが、いくら枯渇したからと言って、自分の父母の記憶まで失われることはあるまい。影が薄くなっているからである。
 昔のことは、よく憶えているのに……。
 思い出せない、そう言う人がいる。その一方で、最近のことは思い出せない。
 やはり、記憶エネルギーが枯渇しているのだ。その兆候を疑ってみるべきである。



●1月3日

 これからの世界は答のない世界……。白紙答案に解答を記さねばならない。
 正解がないから、なおさら厄介である。しかし、答案用紙には、自分なりに解答を書き込む必要がある。
 さて、諸氏は独自の解答を自分なりに用意できているだろうか。



●1月4日

 この一言で揺れた。この言葉で湧き立った。この言葉で遂に蹶起
(けっき)した。しかし、その判断は正しかったのだろうか。もう一度深く洞察を試みなければ、負の連鎖が起こるだろう。
 人は、衝動的な感情で、反省や抑制なしに行動におもむかせることがある。いかに動くか、もう一度再点検をやってみるべきである。



●1月5日

 モニター画面と、リアルな設計の一致……。だが、それは虚像の世界。仮想空間が作り出した知覚に訴えるバーチャルの世界……。
 こうした架空は、ネットショップにも多く見られる。もう一度、真偽を確かめることである。
 実際に店頭に出向かず、ネット上の画面で商品を買う……。便利だが、そのぶん落し穴の危険も覚悟しなければならない。それにアフターフォローはどうか。長期は言うに及ばず、中期的も短期的も保証もサービスもない。況
(ま)して優遇も持て成しもない。あるのは僅かな特典ポイントだけである。そういう「策」が仕掛けられている。



●1月6日

 窓際に追いやられて、負け戦の敗戦処理を遣らされたとしよう。組織では、よくあることだ。人身御供を要求されるからである。失敗が生じたときは、こうした生贄
(いけにえ)を必要とするのが運命共同体の構造であり性格である。
 当然、窓際だったらいい方で、降格や出向もあり、最悪の場合はリストラだってあり得る。このとき家族には、どう説明するのだろうか。普段のまま平静を装うか、正直に語るか。辛いところである。
 家族に嘘をつかないとは、責任転嫁もしないことである。これが上辺を飾る見栄の世界の正体である。



●1月7日

 喧嘩の相手は選ばねばならない。無差別に遣っては駄目だ。極端な言い方をすれば、信頼の出来る相手と遣るべきだ。好意を持っていない人間と喧嘩をするのは考えものである。
 喧嘩して、あとから懐かしく想える相手と喧嘩をするべきである。
 こうした相手と喧嘩して、負ければその時は悔しいと思う。しかし、確かのその時は悔しい。だか、後から懐かしく思える相手なら、やはり喧嘩はすべきである。



●1月8日

 最高の生き方とは何だろう。最高の人生とは何だろう。それは、よき生に恵まれることでなく、よき死に恵まれることである。よき死に場に恵まれることである。
 よき運に恵まれた人は、よき健康に恵まれた人である。よき健康の人は、おそらく、よき家庭にも恵まれる筈だ。よき家庭で、よき人生を過ごす。最高の人生だろう。しかし、それが人生で有終の美を過去るとは言い難い。人生の終着点は、よき死に恵まれることである。
 幸福の最終条件は、よき死に恵まれることなのである。その死は、あたかも秋になって、病葉
(わくらば)が水面に浮ぶようにである。その病葉は沈んで堆積するか、流れて行って何処に辿り着き、そこで腐葉土として堆肥となる。
 ある日のこと、その前触れは何にもなく、自然に遣って来るのである。それは悲しみではない。ある種の深い感動を与えるものである。そういう、よき死に恵まれたとき、「ああ、人生は面白かった」と心から感得出来るのである。



●1月9日

 人は秘密を知ったとき、これを口にせずに、秘密を秘密のままに出来るか。自分の胸に秘めることが出来るか。人の価値は、此処に尽きよう。
 秘密を漏らす者には警戒が必要なだけでなく、身辺に近付けないことである。



●1月10日

 悪いことは出来ないよりも、悪いことは出来るが、敢
(あ)えて悪いことをしない人の方が成功する確率は高い。善悪を知っているからである。善しか知らない善よりも、悪を知り尽くした善は強い。
 世間では「あいつは悪いやつだ」と後ろ指を指される者がいる。
 だが、よく考えて、果たして本当に悪いのだろうかと考え直せば、「悪いやつ」の基準が狂っている場合が多い。悪人という見方が実に曖昧であり、単に噂が噂を呼んだ悪のレッテルを貼られた人がいる。
 特に何一つ抗弁をせず言い訳をしない人は、その槍玉に挙げられる場合がある。そして抗弁しないという行為ゆえに、それこそ悪の証拠と言わんばかりに噂され、やがて事実化されて行くのである。
 愚者で動かされている世間と言う構造が、こうした愚者の思い込みで動かされている現実である。
 見方を変えれば、悪を知らない善は真当
(ほんとう)の善でないからだ。

不動心を得ることが出来ない間は、俗界の巷(ちまた)を徘徊(はいかい)してはならない。心が掻き乱されるからだ。魅惑されて、見らなくていいものに蠱惑(こわく)されるからだ。
 澄み切った心の湖面は乱され、気付いたときには転覆の憂き目に遭遇している。俗界に交わろうと思うのなら、不動心を確立した後の方がいい。



●1月11日

 よき読み物とは、最初、強い反撥
(はんぱつ)を覚え、反撥させて違和感を感じるものだが、あとになってもう一度開いてみたいと思うのなら、その書籍は、生涯の伴侶となることが出来よう。魅力を秘めているからである。
 これは人間も同じであるかも知れない。
 その人は、最初、烈しい反撥
を覚えた。苛立たせた、叱責した、指弾した。遣り込めた。そして鋭く見据えた。しかし、何故か迫力はあった。こういう人とは人生の邂逅(かいこう)になり得る。
 書物でも人物でも、最初の一時の出遭
(で‐あ)いによって、好意に溺(おぼ)れることはあっても、年輪を増すことによって、意外にも無縁になっていくものである。それは魅力がないからである。



●1月12日

 今日は情報過多で、多くの情報の洪水で溢れ返っている。自己流個性と強過ぎる先入観とで汚染された情報の数々。この中から真贋を判別することは難しい。ただ、判断の決め手になる手掛かりがあるとすれば、訴える人の至誠だろう。その至誠の基準が、礼儀である。



●1月13日

 日々の生活の中で地道に錬磨し、心身を労して、自らに笞
(むち)を打つことのできる者は幸いである。そこを神が見ている。



●1月14日

 凡眼ではならない。世に素人と玄人が存在する限り、こだわりをなくして、その道を極めていかねばならない。早く素人の生き方から抜けることが大事だ。それは、こだわることではなく、自然に、奥を極めればいいことである。



●1月15日

 修行中の御恩と奉公に励む者が、自分の取り分を求めたら、その修行者はそれで終わりとなる。
 斯
(か)くして、中途半端な指導者が畸形(きけい)して出来上がるのである。これでは最終章に向けて、「死をみること還るが如し」とはいななくなるようだ。




●1月16日

 未来を見通すためには、過去から学ぶことが大事である。また、過去を反芻する能力も必要である。歴史には過去の出来事が書かれている。過去を想い出し、過去に学び、これをもう一度咀嚼
(そしゃく)してみる必要がある。



●1月17日

 一色の価値観しか持たない人と、多色の価値観を持つ人とでは、全く現実に対する対応の仕方が違うのである。仮に孤立してしまった場合でも、自分は世の中の大勢の人と違う考えを持っているけれど、こういう考えもあっていいと思える価値感があれば、その幅と深みは、決して色褪
(いろ‐あ)せることはない。



●1月18日

 世間には理不尽の風が吹いている。
 だが義
(ただ)しいことが通るとは限らない。義理が仇(あだ)で返されることもある。逆風にあるときは特にそうである。それは“どんでん返し”の風であり、特異点を孕(はら)んだ風である。
 既に好機に入り、好事が続き、遣ること為
(な)すことが総て巧くいって順風満帆となり、有頂天に舞い上がったとしたら、それは逆風が吹き荒れる前兆と検(み)なければならない。魔が仕掛けられたのである。
 しかし、これが魔であることを知らない人は意外に多い。あとで“理不尽だ”と嘆いても遅い。
 いつでも何処でも、蕭々
(しょうしょう)と、その風が吹いている。



●1月19日

 映画『老人と海』は、これまで海に生きてきた男が、老衰に対して、精神力で対抗する物語だった。海に生きてきた男たちは、最後の時期を“一つの挑戦”と看做
(みな)して晩年を生きる人たちである。この物語には、老いた一人の老人が出てくる。この老人は漁夫であった。かつては優秀な漁師であったことを想像させるような老人だった。
 そしてこの老漁夫は、巨大な魚を釣り上げる。その巨大魚の獲得に全精力を使い果たすのだ。
 老漁夫は、その巨大魚を陸地近くまで運ぶことに成功するのだが、鱶
(ふか)の群れから守ることはできなかった。巨大魚は鱶から肉の殆どを食いちぎられる。肉は殆ど食いちぎられてなくなり、巨大後の骨と化した残骸だけを海岸に打ち棄(す)てるのである。自分がついに巨大魚を捕らえ、他の漁師仲間に、その大きさを証明することはできなかった。
 しかし、それは老人にとっては、どうでもよかったことであった。そんなことは、大して重要ではなかったのである。老人が問題にしていたことは、大海原に乗り出し、老いても、自らの心のうちには、まだ冒険心だけは失っていないことを、他の漁師仲間に知らしめることであった。心のうちは、熱く燃え滾
(たぎ)り、情熱の源泉は、まだ尽きてないことを証明してみせることだった。



●1月20日

 悪い時には悪いことが起こる。畳み掛けて来る。善いことは長続きしないのに、この現象は連鎖を起こす性質がある。

書画骨董の鑑賞は高尚な趣味だが、度が過ぎれば、その生業の商売人と変わりなくなる。
 仙境の風流も、俗界の雑踏と同レベルのものになる。心にこだわりがあれば、愉しみの世界も、一挙に苦海に顛落してしまう。



●1月21日

 俗に、「落ちた犬は討たれる」という。面白半分に叩かれる。木登りをして落ちた豚も同じだろう。
 煽てられた豚は、猿にでもなったつもりで、その気になって木登りをする。それを周囲で見ている。嘲笑の渦の中で見られている。誰もが登れる訳は無いと決め付けて、落ちれば落ちたで、やんやの拍手喝采をする。哀れな一面である。そして、木登りの出来ない豚に、木登りをさせた企画者や仕掛人には、一切の非難を浴びせることはない。木登り出来ない豚こそ、哀れな不運者だった。この不運の背景に、嗤
(わら)われる前提として、豚に木登りさせることが画策なされた。
 この嗤いは多くの視聴者の支持を得る。大衆の一つの娯楽になっている。マスコミの画策は、常にこの一点に置かれている。スポンサーの手前、ここに重点が置かれている。選挙投票と同じである。面白いものは支持率が高い。
 そして、何れかに偏る動きを、現代人は、自分には自覚症状を感じないまま、その方向に奔っているのではないかという懸念すら浮上してくる。デモクラシーも、偏り過ぎれば民主独裁の為政者を生む。



●1月22日

 昨今は、該博な知識と進歩的な理論で武装した知識人が登場した。それが庶民的な権威となった。信奉者も多い。しかし、正体は「まやかし」である。文化や交流。こうした分野にも、「まやかし」が忍び込んだ。
 その結果、価値観も様変わりした。これまでの善が悪になり、悪が善になった。「まやかし」が逆転を生んだ。白でも黒になる時代である。



●1月23日

 人間は神ではないから、そんなに偉くはない。偉くない上に間違いも多い。人間こそ、動物の中で、一番矛盾に満ちた生き物であるからだ。人間の抱える矛盾は、どんなに社会が整備されたとしても、人間理解の不備はどこまでも付き纏い、これは永遠になくならないであろう。
 これに対し、改善されていくことは期待するが、努力だけでは克服できないのが自明である。そして、これは人間の背負う、一種の宿命のようなものを抱えている。しかしこの宿命の中に、また人間は、あるものに恨みを抱く私怨
(しえん)が存在するからである。



●1月24日

 一組の相思相愛の若い男女は幸福を夢見て結婚した。しかし彼らは甚だ貧乏であった。貧乏なうえに病気がちであった。その生活は気の毒なくらい惨めで不幸な生活であった。
 ところが、この夫婦は不幸を不幸と捉えず、不幸の中に創意工夫で貧乏の中に楽しみを見出す「何か」を探して健気
(けなげ)に生きていた。良人(おっと)は体調のいい時は力仕事に従事する。また新妻は切り詰め、生活を工夫し、時には自分の美しい髪の毛を売ったりして金の工面をつけた。
 何故ここまでするのか。
 未来の幸福を夢見ているからである。今は苦しいが、未来に希望を見出しているからである。
 こうした今の現実を、果たして無知と貧乏が起因しているのか。
 確かに無知は貧乏の原因であり、貧乏は無知が起因していることが多い。これが人間一般の通則である。
 だが、この通則を破って、世間には無知でありながら何らかの運に恵まれ、富んでいる人も少なくない。
 しかしである。これは変則的現象に他ならない。
 変則的現象は長く続かないのである。やがて尽きる時が来る。
 無知でありながら富んでいる人の運は、幸運の女神の気紛れだろう。



●1月25日

 幸福になるかならぬかは、人間が決めることでない。人間は幸福に向かって努力するだけのことである。努力は実らないことがある。むしろ実らないことの方が多いだろう。
 それでも幸福に向かって歩いた。幸福に繋がる道を歩いた。
 それに向けて歩いたこと自体が、既に幸福であった。歩んだ行為の中には、既に幸福があった。
 幸福への途上に何かを感じ、貧乏生活を余儀なくされながら、既に幸福路線を歩いているという確信を持っている。幸福とは、こう言うものでないだろうか。



●1月26日

 シンギュラーポイントというものがある。特異点のことである。
 例えば、フラスコで湯を沸かしたとしよう。
 ところが初期段階では殆ど変化が見られない。しかし暫くすると、泡が立ち始める。湯気が出て来る。まだこの状態に至っても、殆ど注意を引かない。だがこの先である。この状態を更に放置する。そうすると急に沸点に達し、湯が溢れ、酷いときはフラスコが爆発する事がある。この危険な点を、シンギュラーポイントという。
 これを社会学的に、運命に当て嵌め、「運命の特異点」と解すれば掛かり易いだろう。
 時勢にも、このような特異点が働いているのである。
 ところが多くはこれを見逃す。放置しておいても、今は状況に変化無しと検
(み)てしまうのである。
 だが、特異点に到達するのは瞬時である。刹那と言っていい。あっという間に、シンギュラーポイントを突き崩し、一気に浴びせ掛けるように襲ってくる。気付いたときには混乱の只中にあり、ただ爆発へと突っ走るのである。



●1月27日

 『算命学』などでは「宿命は変えられないが、運命は変えられる」としている。
 しかし、運命は変えられる、つまり「変えたい」とする行動原理には、それを変えるとして、「いい運命に変える」と、もう一つ「悪い運命に変わってしまった」と考える両者間の区別があるのではないかと思うのである。
 だが、運命は変えられるとするなかに、なぜ「いい」と「悪い」があるのだろうか。
 そして「いい」とするのは、人生の目的を富や地位、名誉などに置いて、それを手に入れられれば、それはいい運命であり、そうでない場合は悪い運命と決めていることなのだろう。
 しかし、である。
 運命のテーマを富や地位、また名誉以外に設定している人にとって、人間的な成長や意識の進化において、このような考え方は却
(かえ)って邪魔になるのではないか。むしろその種のものがあることによって、個人主義的なエゴが拡散し、自惚れた優越感が露(あらわ)になり、思い上がりも甚だしくなる。低次元の毒に侵される危険もある。その可能性も当然懸念するであろう。そうなると顛落(てんらく)である。
 運命の善し悪し……。
 果たして運命の法則は、「良い」「兇
(わる)い」で区別できるほど、単純だろうか。



●1月28日

 世間には恋人が出来たり、その恋人と結婚したりとするその事自体を、「めでたい」と感得するようだが、それは誤りである。そもそもこれを考えれば、これこそが、後に禍
(わざわい)を齎す凶事である場合が少なくないからだ。言わば、この出遭いは凶事の始まりとなり易い。
 こういう出遭い時に、偶然とか奇遇とかの、人生の社交辞令のような現象が起こるようだ。
 それを幸運の始まり、ツキが廻って来た……などと受け取ると、後でとんだ“しっぺ返し”を喰らう。だが、どうして世の中には、こうした偶然とか奇遇とかが転がっているのだろうか。
 単に運命の女神の悪戯だろうか。
 これをよくよく考えれば、こうした現象は決して偶然ではなく、最初から必然として、起こるべきして起こっているのであろう。
 神の戯れ……。そう思うと合点が行くところがある。
 人は、神の決めた必然を偶然などと呼ぶ。
 特に幸運の女神の偶然は、確率的に言っても余りにも低い。
 したがって人知の及ぶところを必然といい、予期もしないそうでないところを偶然と呼んでいるのかも知れない。



●1月29日

 『理趣経的房中術』では、「声を聴け」と説いている。俗に云う、声の色である。
 「玉
(ぎょく)が転がるような、涼やかな声でなければならない」という。風鈴のような涼やかさであり、清々しさだ。声の良し悪しを問うのである。その声が、自惚れた声であってはならない。声の端々に、“けん”があってはならない。濁ってはならない。澱(よど)んではならない。そのように教える。
 この禁を侵して、顔だけで選んだ相手と接すれば大失敗となることがある。
 玉の転がる涼やかな声……。その中に吉凶が隠れている場合がある。



●1月30日

 フランスの作家スタンダールが著したものに『恋愛論』がある。
 この『恋愛論』の中には、繰り返し「結晶作用」という言葉が使われている。この結晶作用とは、炭坑の中に持ち込まれた枯れ枝が、塩分などにより、結晶作用を受けて、枯れ枝だの結晶体の中心に、まるで花を付けたような小枝に変貌
(へんぼう)する事から、こう呼ぶそうだ。
 スタンダールによれば、人間は恋愛をすると、女性では、相手側の男性の欠点も時には長所に映り、粗暴で粗野な性格も、男らしくて勇敢と映るわけである。また男側から恋する女を見れば、惚
(ほ)れれば、菊石(あばた)もエクボで、実に美しく見えると言うのである。男女とも、美化された環境に陥ってしまって、そこから抜け出せないというのである。
 つまり、恋愛の心理は相手を美化して考える結晶作用と言うのである。要するに、執拗
(しつよう)にこだわり過ぎたのである。こだわりこそ、とんでもないことであった。こだわって墓穴を掘ったのかも知れない。あるいは相手を苦しめたのかも知れない。
 こだわることは決していいことではなかった。こだわれば凶事と裏替えしなっていた。それを端的に指摘したのが『狭き門』である。一読をお奨めする。



●1月31日

 六分を可
(よし)とする。
 何事もこだわらず、菜根譚流に「ほどほど」に行きたいものである。
 物事に完璧すぎる完璧を求めた場合、そこには謀
(はかりごと)が待ち構えているかも知れない。
 吉田松陰も、『講孟余話』の中で、自分の育った杉家の為来
(しきた)りを挙げ、「第一に先祖を尊んできたこと。第二に神を崇めてきたこと。第三に親戚が仲良く暮らしてきたこと。第四に学を好んできたこと。第五に仏教に深入りして来なかったこと。第六に畑を耕してきたこと」を挙げいている。
 これこそ「ほどほど」の功であった。


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