運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
ひと夏の奮闘記 1
ひと夏の奮闘記 2
ひと夏の奮闘記 3
ひと夏の奮闘記 4
ひと夏の奮闘記 5
ひと夏の奮闘記 6
ひと夏の奮闘記 7
ひと夏の奮闘記 8
ひと夏の奮闘記 9
ひと夏の奮闘記 10
ひと夏の奮闘記 11
ひと夏の奮闘記 12
ひと夏の奮闘記 13
ひと夏の奮闘記 14
ひと夏の奮闘記 15
ひと夏の奮闘記 16
ひと夏の奮闘記 17
ひと夏の奮闘記 18
ひと夏の奮闘記 19
ひと夏の奮闘記 20
ひと夏の奮闘記 21
ひと夏の奮闘記 22
ひと夏の奮闘記 23
ひと夏の奮闘記 24
ひと夏の奮闘記 25
ひと夏の奮闘記 26
ひと夏の奮闘記 27
ひと夏の奮闘記 28
ひと夏の奮闘記 29
ひと夏の奮闘記 30
ひと夏の奮闘記 31
ひと夏の奮闘記 32
home > 小説・ひと夏の奮闘記 > ひと夏の奮闘記 1
ひと夏の奮闘記 1

小説・ひと夏の奮闘記








 人生には大きなうねりが渦巻いている。そのうねりに巻込まれながらも、いつとはなしに“どさくさ”にまぎれて何かになってしまうことがある。
 時の運命の悪戯
(いたずら)が、死から遠避け、地獄を巧く躱し、自己喪失に陥ることも無く、「今日に在(あ)」るという結果を齎すことがある。運命の悪戯という他ない現象が起こることがある。
 結果的には、好運と言わざるを得ない、然
(しか)も、その間に奇妙な異能を身に付け、いつの間にかしたたかな忍耐力を養い、後になってプラスに転じているという情況である。
 まさに一寸先が闇であり、闇が好運を連れてくることがある。



●厄日

 この日は、私のとって、とんだ厄日だった。この厄日が私の人生の明暗を分けた。
 福岡教育庁から通知があったのである。その達示事項は、昭和四十六年四月××日午前十時より、福岡教育庁舎の大広間で教員免許授与式の授与式が執り行われるとの旨が記載されていた。
 当時、教育庁は博多の中心に流れる那珂川
(なか‐がわ)近くの古めかしい明治期の建物の名残を留めた明治生命ビルの隣にあった。私は此処で、一ヵ月遅れの教員免許授与式に参加したのである。
 教職課程を履修し、中学と高校の数学と理科の教員免許を貰う資格があった。そこで、教育庁まで貰いに行ってみた。
 だが恰好がよくなかった。不届き千万と思える開襟シャツに“下駄履き”という姿であった。
 本当は大学の卒業式で貰
(もら)う予定であったが、私だけがどういう訳か、福岡県教育委員会か教育庁側の手違いで、その授与が今日のこの日になってしまったのである。卒業式で貰えなかったのである。それが今日のこの日になってしまったのである。
 一口に“手違い”というが、何処にどのような手違いがあったのだろうか。

 教員免許など別に欲しくもなかったし、貰いに行く気もかったが、これと言った仕事のない私は暇
(ひま)潰しのつもりで行ってみた。
 当時は国鉄である。
 八幡駅から博多駅まで、開襟シャツに下駄履き姿という身なりで、である。大学時代の通い慣れた八幡発・博多行きのコースを下りのである。
 私は大学時代、下駄履きをよく注意されたものだ。
 学生部長のオヤジから「君、君……。本学は下駄履き禁止なんだ。注意したまえ」と、お小言を喰らい、その翌日も下駄履きで登校するのだった。
 翌日、学生部長からまた下駄履きであることを注意された。
 「下駄履き、禁止だといっただろう。分かっているのかね、君」と、お小言を貰うのだが、「どうも」と言って、次の日も下駄履きで行った。

 『牡丹燈籠』さながらの、カランコロンの下駄履きの音はよく響く。居場所が直ぐにばれる。見つかるのである。
 さすがに怒り心頭に来たのか、学生部長は赤い顔をしてハゲ頭から湯気を出していた。
 「君は、なんど言ったら分かるのかね」
 忌々しいという腹立たしさが籠っていた。
 ポーズだけは反省した振りをする。そうでないと学生部長が、わざわざ私を呼び止めて、注意した立場が失われる。私は学生部長の立場まで心遣いをしてそれなりの脳味噌で、気を遣っていたのかも知れない。
 「はあ、反省しております」と一応、心遣いの社交辞令を遣って退ける。心の中が“あかんべ”だった。
 その証拠に、次の日も下駄履きであった。校内ではカランコロンの下駄であった。

 カランコロンはよく響く……。不届きなほど、よく響く。
 この音を夜聞けば『牡丹燈籠』であろう。
 この音で、居場所がバレるのだから、学生部長も直ぐに探し当て、私に懇々と有難い説教を垂れる。
 この種の説教を有難く聴くコツは、好きなだけ相手に喋らせる。これにより、怒りが納まり、ストレスまで解消される。おそらく、私への説教をあたかも日課にしている学生部長は、もし私が居なかったら、今頃、ストレスを溜めて過労死していたかも知れない。私もそれなりに、この世でのの存在価値の分担の一翼を担っていた。
 人間、それそれに意味のある存在価値を示すものである。私の存在も、世の中全体からすれば、何らかの意味があった。この世に無駄なものはない。
 その度に「こりゃ、どうも」といって相槌
(あいづち)を打っていた。そして、何時(いつ)の間にか「こりゃ、どうも」が私の常套句になっていた。

 さて、奇妙に思うのだが、この「どうも」である。
 本来は、「ありがとうございます」とか「こんちにわ」「こんばんわ」の類
(たぐい)であろう。
 また「申し訳ありません」とか「ごちそうさま」「失礼しました」の意味であろう。
 考えれば奇妙な言葉であるからだ。この「どうも」で、総て済まされるからである。一切、決済がされてしまう。何とも日本語の「明」なるところ。


 ─────昭和四十六年四月××日午前十時。福岡教育庁舎の大広間にいた。
 特記すべきは、下駄履きであった。
 この下駄履き、晴れがましい場所に出向くには、多少、不謹慎の観があった。いや多少ではない。以ての外だったかも知れない。
 庁舎内でのカランコロンの下駄履きの音はよく響いた。
 だが、この日の下駄履きは、やや控えめだった。
 惜しむらくは、この晴の舞台に、学生の頃の学生部長が居なかったことである。
 誰も私に注意しないのが、拍子抜けしていた。つくづく、惜しいと思う。私も不届き千万が、今日この頃の日課になっていたからである。

 もし、この下駄履きが学生時代に履いていた“白緒の高下駄”だったら、大いに顰蹙
(ひんしゅく)を買っていただろう。辛うじて、常識の範囲で留め置いていたというべきか。
 だが、開襟シャツに学生時代に履いていたグレーのスラックス、それに下駄履きであった。もう、顰蹙を買ったことは否めなかった。
 そこには、私以外に現役の中学校の教師と思われる中年の人が三人来ていたが、長年の通信教育を何処かの大学でスクーリング受講したらしく、中学一級の教員免許が今日授与されるらしいかった。
 彼らは身奇麗
(み‐ぎれい)に正装し、びしっとしたスーツを着込んでいた。それだけに私とは雲泥の差であった。晴の授与式に値する服装をしていた。そして「教師」という職業を神聖し、おそらく聖職と考えているのだろう。その畏敬が彼らの身形に顕われていた、

 授与の段になった。
 教育委員会の教育次長から、一人ずつに教員免許状が授与された。授与される順番は、彼らからであった。彼らの表情と態度は一風変わっていた。まるで卒業式の全体を代表し、生徒総代として、卒業証書を貰いに進み出る優等生のような、華々しい歓喜に満ちた表情であった。きびきびとした動きで、さっと両手を差し出し平身低頭して頂くのである。その光景は異常なほどの、私には茶番に思われた。滑稽にさえ映った。
 それは私の眼が、社会に対してそれほど不謹慎になっていたのかも知れない。
 しかし、どう検
(み)ても滑稽だった。異常と言ってよかった。価値観の違いだろうか。
 その表情をよく見ると、進み出た彼らは直立不動の儘
(まま)、感無量のような顔つきで、感激の目に涙さえ浮かべて、手渡された免状を手にして、何か尊いものを貰うかのように高々と掲げ、そして深々と頭を垂れていた。

 私の番になった。
 同じように免状が手渡された。私はそれを手にしたとき、先に貰った現役の中学教師たち程のような感動も感激も何も起こらなかった。それは無感動といってよかった。
 その仰々
(ぎょうぎょう)しい紙切れには、高校数学理科二級・中学一級と“安っぽくゴム印”で押されていることだった。これこそ注視べき点であった。
 このとき私は、教師が、戦前・戦中の聖職者から労働者に顛落
(てんらく)したことを悟った。

 「なんだ、これ……」が私の率直な感想だった。
 それを貰った後、その免状を八つに畳んでズボンの後ポケットに突っ込んだ。私にとっては、恭
(うやうや)しく頂いて、最敬礼するものではなかったからである。
 すると、教育次長が、
 「君、君。それは、そういうものじゃないんだが……」と、呆気
(あっけ)にとられたような顔をして、首を捻りながら言った。私を不届き者と思ったのだろう。
 私は、「ああ、そうですか」と言って、この場を立ち去った。
 もしこのとき「ああ、そうですか」の変わりに「こりゃ、どうも」と言ったら、どうだったであろうか。
 一切は決済されただろうか。
 季節は足早に変化していた。青春時代の時々刻々の時の過ぎ方は速い。
 もう桜の花がすっかり葉桜に変わっていた。桜の樹から、葩
(はなびら)が失せていた。
 昭和四十六年四月末のことである。


 ─────遡
(さかのぼ)ること、二週間前ほどのことである。
 四月半ばのある日、博多中洲の那珂川の橋の上で、バッタリ、高校三年の時の担任であった大川先生に会ってしまった。そもそも、この先生に会ったこと事態が、既に厄日だった。
 この先生は、数学科主任の大川幸一といい、戦前・戦中と満洲で鉱石を発掘する鉱山技師で、東大工学部を経て哈爾濱
(ハルビン)工科大学の教授をしていて先生であった。工学博士の博士号を持っていた。

  それは、私を呼ぶ声から始まった。
 「岩崎!岩崎君じゃないか」
 私は思わず振り返り、「ああ、先生……。ご無沙汰しております」と返事を返し、一礼をした。
 「久しぶりじゃないか。ところで君、いま何してるんだい?」
 「何って、何ですか……?」
 「君の職業だよ」
 「ええッと……無職です」
 「いけないなァ。君のような秀才が仕事も就かずにぶらぶらしていては……」
 この「秀才が」、という言葉の意味は、この担任が当時数学担当の教師であり、かつて私は、福岡県高等学校対象の“O社主催”の『高校数学コンクール』で、二年生と三年生の時に、全国ランク、二年連続五番以内の上位を占めて表彰されたことがあったからだ。

  私が数学への頭角を現し始めたのは、中学三年の卒業間近の頃であった。
  元来暗愚であった私は、この時期を境として突然変異?し、今までの暗かった頭は嘘のように鮮明となり澄みわたった。そして高校の時には、それがピークに達していた。
 私は何れは、医学者が、もしそれが叶わなければ数学者にでもなろうと思って、希望的観測を抱いた高校時代を送ったことがある。しかし、ある医大の推薦入学には合格したものの、家庭貧困のために、医学者への道は絶たれていた。

 また大学では、いつ行ってもデモと休講ばかりで、一年、二年、三年と、殆ど試験以外には学校に顔を出さなかったが、大学四年の後期から、大学院受験を真剣に考え始めた。だが、大学院受験には失敗して、その夢は果敢なくも破れ、数学者への道は目前で挫折した。
 しかし、この担任は、私の数学の成績が良いことだけが記憶にあったらしい。秀才と言ったのは、多分そのせいであろう。

 「どうだね。私の知人に鹿児島のある工科大学の学長をしている人がいるんだがねェ。その大学、工学部の『微分方程式』の講師を探しているというんだ。君、そこに行って働いてみてはどうかね。君には打って付けの仕事だと思うが……」
 「鹿児島ですか?鹿児島とは随分と遠いですね……」
 「では、福岡だったらいいのか?」
 「はあ、近ければ……。何処でもいいと思いますが……」
 「いやに、他人事のように云うじゃないか。君のことだよ、君の……」
 「はァ……」
 「君、頭はだなあ、使って動かさないと退化するのだよ。首から上はしょっちゅう動かしておくことだ」
 この先生も、また懇々と説教を垂れるのが好きな御仁であった。
 その度に「はあ」と頭を垂れ、有難い説教を聴く振りをする。
 「いいかね、君。頭が動かないのは、錆び付いてしまうためだ」
 「ご尤もで……」
 これも、今日この頃の私の常套句だった。
 「動かなくなってしまた頭は、実は頭を動かす気がないからだ」
 「ご尤もで……」
 このしおらしい、健気なポーズが大事なのである。傍
(はた)から見る、優美にさえ映る。このワンポイントを誤ると、忽(たちま)ち演技不足で人生舞台から顛落(てんらく)する。
 さんざん少し搾
(しぼ)られた挙げ句、ゴリ押しで、些(いささ)か説教調の意見を垂れる、お節介な大川幸一先生は、私の気のない返事に不満であったらしく、“嫌み”に取れるような言葉を、更に続けた。
 この先生も、人の感情を読むのは達人的であった。顔色の背後にあるものを読む。

 「君はきちんと学問さえしていれば、一流の数学者までとはいかないが、二流か、一流半くらいの数学者になれる実力は持っていた。私は君の担任をしていた頃から、君の数学への才能を見抜き、君の希望通り数学者として、立派に身を立てられる筈だと思っていた。君もそう思っていたに違いない。
 それをつまらない古武術とやらに手を染めて、その稽古に明け暮れるあまり、自ら希望を打ち砕いて挫折してしまった。
 原水爆や近代科学兵器が発達した今日、野蛮な古武術は、時代錯誤も甚だしい無用の長物だ。
 もしあの時、君が将来のことを考えて、もう少し本気で、自分自身の行く末に目覚めていたら、目指す大学院にも合格していたであろうし、その後も、前途洋々とした数学者への道が開けて、学問で立派に世に立てた筈だ。私はそれが今でも残念でならないんだよ」と説教じみたことを散々言われた。
 「はあ」
 「今の君に、立命の一灯はあるのかね」
 「と、申しますと?」
 「君は、なにで世に立とうとしているのかね!」
 鋭い言葉だった。
 「……………」
 私は回答できないでいた。
 立命の一灯……。当今の現代人にこの言葉を知る者は少ない。少ないというより、そのこと事態を考えようとしない。
 大川先生は、将棋で言えば私に「大手!」と掛けたのである。
 私は心の中で《先生、私の答案の解答を見せろと仰るのですか》と思ったのである。
 立命の一灯……。いつまでも心の中に残った。だが、私の一灯は未
(いま)だに不完全燃焼を起こし、確りとした燈火(あかり)を灯せずに居た。

 「ところで、お母さんは元気か?……」
 私は大川先生と、往来の立ち話で、このような会話を交わしていた。この先生は、私の母が病気がちであることをいつも気遣ってくれていたのである。
 この後、近くの喫茶店に入り、話を煮詰めて、この担任の進める高校に赴任することにした。後で、その学校の名前を聞いて吃驚
(びっくり)したが、行くと言ってしまった以上、今さら「辞退します」とは言えなかったのである。また、躰の弱い母のことを考えれば、大川先生の気遣いを渡り舟と思わねばならなかった。好き嫌いの贅沢は言えなかったのである。なんとなく、仕方なくである。
 早速、私はこの担任に後日、履歴書を送ることにして、この喫茶店で別れた。

 当時の就職状況は、今のような不況化であっても、売り手市場優位の開放的な状態ではなく、戦後の第一次ベビーブームに生まれた私たちは一般には「団塊の世代」といわれ、その狭き門を競って多くのノンポリ学生が犇
(ひし)めき合い、買い手市場一色の社会に放たれようとしていた。
 そのために、四年生になると就職課の前には長い行列が出来て、何時間も並び、また自ら普段は着慣れない詰め襟の学生服に身を固め、会社訪問を小まめに行って、自分の売り込みに奔走
(ほんそう)したものだった。
 この時、特に文科系の学生は実に悲惨であった。就職難で買手が殆どないのである。詰め襟の学生服の大学四年生が商社の前で長い行列を作って入社試験に臨んだものである。
 理工系以外の職種は少ないために、多くの企業は、文系の学生を敬遠していた。役所仕事しかなかったのである。
 私は工学部であったので、二、三の弱電メーカーから当りをつけられていたが、端
(はな)から入社する気など毛頭なかった。
 それというのも、私は既に会津自現流の道場を持っていたので、そこから離れ難かった。その離れ難さが、就職など、結局“どうでもいい”という気持ちにさせていたのかも知れない。
 そして、この年の五月一日付けを以て、松本精華女学院高等学校に赴任することになったのである。とんだ厄日だった。

 だが、私の厄日はこれで終わったのではない。そのオチがある。このオチこそ、私のとっては厄日の元凶だった。
 では、オチについて話を進めよう。

人は他人に言えぬことがある。それを心に仕舞っておくことは、しかし何とも寂しい。その寂寥に一抹の風が吹き抜ける。隙間風とでもいうおうか。
 それを、言葉でなく、ふと心で分かることがある。心で分かることが、実は本当に分かるということではないか。
 本来、真意と言うものは言葉にするとウソになるからだ。
 ゆえに、他人に言えないことがある。
 黙っていることが、則
(すなわ)ち真実なのである。それを思い遣ることが、労りと言うものである。
 その労りの心を持ったとき、人は人間としての深みを増す。
 それは好きか嫌いかの問題ではない。好悪の感情を超越した遥か向こうに、大きな広がりを宿したとき、人は始めて人望を得る。

 私はこの年の三月末で大学を卒業していた。
 教員免許を紙切れを貰うために暇潰しに博多まででたものの、一ヵ月ぶりの博多は、何とも刺激的だった。北九州八幡区
(当時はこの区は東西に分かれていなかった)の八幡製鉄の煤煙汚染のスモッグだらけの空気とは異なり、博多は商人の街であった。見る物、聞く物、食う物が北九州八幡とは異なっていた。娯楽施設も多い。博多駅周辺にはかつての遊郭があり、劇場その他も多数あった。
 福岡教育庁まで出向き、このまま帰るには惜しい気がした。折角、博多まで来たのにという気持ちがあったからだ。
 この日、那珂川周辺の川丈付近を散策し、博多駅の食堂街で、昼飯でも喰ってという感じで、うろついていたのである。そこで、駅の食堂街で飯屋に入った。在
(あ)り来たりの安物の日替り定食を注文し、可もなく不可でもなしという、そう美味くもない飯を喰った。一杯やりたいが、懐に余裕が無い。確(しっか)り貧乏性が身についていた。
 メシを喰ったあと、どうしようかと思案した。久しぶりに博多に出たことだし、エロ映画かストリップでも鑑賞して帰るか……。頭の中は学生になったいた。
 そういう漁り根性で、うろついていたときのことである。

 川端横に差し掛かった頃であった。
 そこで、いかがわしい“筋者”と思える、お兄
(あにい)さんが、劇場の呼び込みをしていた。
 「ねえ、そこのお兄さん。見て行かない。今なら時間割引だよ。見ていってよ」
 「ほッ……、時間割引ね。ところで、学生だったら?……」
 「学割が利きますよ」
 「えッ?学割……。すると、この時間に、学割があるとすれば、幾ら?」
 「時間割引の、更に半額」
 「安い!」と軽率な、売り言葉に掛け言葉をかけていた。
 そもそも私の厄日は、貧乏人が安易に口にする「安い」の一言から始まった。
 私は半額と云う言葉に転んだ。貧乏人の習性である。
 私に、真っ昼間から聲
(こえ)を懸けた劇場の若い衆は、『ラスベガス』というストリップ劇場の呼び込みだった。そして早速、中へと連れ込まれたのである。鴨(かも)である。見事な“一丁あがり”だった。

 私は卒業しても大学の学生証を持っていた。返さずに、その後も二年間ほど所持していた。事あるごとに、この学生証は役に立った。
 「学割で、男一枚」
 ポイントは「学割で」といわない。
 当時、学生の間で流行したのは男女の性別を克明にさせて、銭湯、映画館、劇場などの前払いの現金収入を先に徴収するところでは、性別を明かすことが流行になっていた。
 そこで、「学割で一枚」とはいわない。
 「男一枚」といえば、言った者が学生であることが分かる。
 労働者などで、テンプラ学生を見分ける一種の割符か、手形のようなものであった。

 学割で、男一枚……。さて、見破られるか……。
 こう言って、私はガラス張りの向こうに居るキップ売りのおばさんに“板垣退助”を二枚を出した。
 ちなみにこの時代、板垣退助が百円札に擦り込まれていたときである。
 本来、この劇場は学割で四百円であり、更に時間割引で半額になるから、入場するには二百円でいい。
 「あんた、本当に学生?」
 「はい」
 この一言は、誠実そのものを装ったものだった。はたして通じるだろうか?……。
 「学生証を見せてよ」
 思わず、「あちゃ!」と小さく吐露
(とろ)し、私は尻のポケットからしぶしぶ学生証を出してみせた。
 「どうぞ、ご覧ください。正真正銘の学生ですから。誓って、テンプラではありません」といって、顔写真と大学名を確認してもらった後、直ぐに引っ込めようとした。

 ちなみにテンプラとは、偽
(にせ)学生のことである。
 当時は、大学とは無関係な中卒や高校中退の小規模会社の労働者が学生服を手に入れ、それを着て、大学生のように振る舞うことが流行したものである。いわば小さな優越感を味わっていたわけである。
 「俟って、俟って……。テンプラでない証拠、よく見せてよ」といって、なかなかおばさんはしぶとい。
 「なにか、ご不明の点でも?……」
 「なんか、これ。訝
(おか)しいわね……」といいながら、学生証の中までパラパラと開いて見はじた。
 「どこなでしょ?」
 「あんた、いつ入学したの?」と切り返してきたのである。
 敵は手強い。一筋縄ではいかない。
 「四十二年です」
 「その四十二年って、昭和よね。まさか明治じゃないでしょうね」
 「ご冗談を。ぼくが明治生まれに見えますか」
 「近頃は明治生まれの大学生も居ると言うからね……」
 「えッ?明治生まれ?!」
 明治生まれのテンプラ学生に、自分のことはさておき、
《誰だ誰だ。そんな悪いことするじいいは》となった。
 果たして、爺さまが学生服を着て徘徊
(はいかい)しているのだろうか……。アルツハイマーにしては、かなりのIQの高い知能犯だった。

 おばさんはしぶとく計算を始めていた。
 「それもそうだけど、すると君は、今年卒業している筈じゃないの」と、指を折りながら数え、実に痛いところを突いてきた。
 私は、しかしこういう時にも焦
(あせ)らない。決して、しどろもどろしない。たじたじにもならない。
 あくまで苦言を呈
(てい)して、堂々と渡り合う。胸を張って毅然(きぜん)とする。尻尾は出さない。ここが名人芸。
 絶対に、「確かにそうです」などといって、あっさりそれを認め、追加料金などを決して支払わない。敵が敵なら、こっちはこっちで、歴
(れっき)とした大学生で押し通す。
 青いところを見せ付ける。

 「いいですか、よォ〜く、見て下さい。この月謝の納付の完了印、一期分だけ抜けているでしょ。これはですね……」と言いかけると、「つまり、あんたは不払いで留年させられたのね、お気の毒さま。はい、はい、分かりました。お大事に……」と、いらん同情句までつけあがった。
 「うム?……」
《お大事に……》の意味がよく分からない。
 この一言が妙に気になった。
 あるいは苦学生というより、学力に問題があるのではないかと疑ったふうだった。
 「来年はちゃんと卒業するのよ、お勉強、頑張ってね」
 果たして、これは激励だろうか。それとも、同情ともつかぬ厭味
(いやみ)だろうか。
 「ありがとうどざいます。来年は卒業できるよう、来年こそ勉学に身を入れて頑張ります。オース!」と両手で拳を握り、気合いを入れてみた。応援団がする、あれである。
 斯
(か)くして、無事に時間割引で、更に学割で、入場で来たのである。めでたしめでたしである。
 今から、思い切り興奮して、思い切り助平やるぞ。
 意気軒昂の意思表示だった。
 だが、この「めでたし」が、実は厄日の凶事が起こる前触れだった。

 中に入るとショーは、最終に掛かっているようだった。取って置きの俎板ショーで、これをもって第一部が終了するというところだろう。
 こうした小屋の劇場に出演する踊り子は、一日三部制で、午前は11時半から午後2時半まで、15分の休憩を挟んで午後は2時45分から5時45分まであり、夜間は同じく15分の挟んで6時から10時までであった。午後10時で終了するのは、当時の劇場法やパチンコ協会の遊戯場法によるらしい。これらは、みな警察の管理・監視下にあった。違反すると、即座に営業停止になった。

 私は、この日、厄日の扉を抉
(こ)じ開けて中に入っていった。思えば、間抜けな迷える仔羊だった。
 これから、貧しく、儚く、哀れな物語が始まるのである。


トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法