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ひと夏の奮闘記(下) 1
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ひと夏の奮闘記(下) 1


小説・ひと夏の奮闘記(下)







 格言にいう。
 侈傲
(しごう)の者は亡ぶ……。
 これは貴賤を問わず「亡」に見舞われる。「亡」の決定は百発百中である。「亡」は、外れることはない。
 ふつう先祖を祀
(まつ)る家は、如何なる家も先祖の遺徳で守られている。先祖の残した「徳」である。徳は「恤(じゅつ)」であり、あわれむ心である。
 先祖の鬼神は、鬼となり神となって、子孫を守る。その「守り」に、先祖は子孫の家訓を残した。子孫は家訓により、先祖の教えを学んだ。家訓は先祖の智慧のエッセンスである。
 家柄を驕
(おご)り、己の心の鍛錬を怠り、驕ったままに生きる者は、やがて亡ぶ。そういう家は三代も続かず没落していく。
 肩で風を切り、強面
(こわもて)に幅を利かし、傲慢(ごうまん)に物を言う。傍若無人に横柄に振る舞う。
 そして、他人
(ひと)の話に聴く耳もたず……。
 こういう因縁を抱えた者は、いずれ亡ぶ。その意味では、成金は顕著である。譲ることを知らず、慎みを知らないからだ。
 忘れてはならないのは、この世には作用と反作用が働いているからである。



第三話 紺碧はるかに




●洋々たる前途

 旅立ちの慌ただしい早朝のことだった。
 ひと波乱ありそうな黎明
(れいめい)である。勘では「何かある」というシグナルが鳴り響いていた。
 この日、黎明から、風が殆ど感じれなかった。まもなく朝陽が昇る。しかし、異常な状態は拭えなかった。
 今日は暑い一日になりそうだ……。莫迦
(ばか)に暑い夜明けであだった。形容すれば、灼熱(しゃくねつ)のようなという、誰もがそう思える朝だった。はたして、何かの悪しき暗示だろうか。
 吉凶を占えば、「凶」を思わせた。
 軽い朝食を済ませた後のことである。

 「先生。本当にお世話になりました。わたし、遣れるところまで遣ってみます。わたしの傍
(そば)には、政子先生がおりますから大丈夫です」
 石山いずみは嬉野に来てから、これまでとは違う本当の自分に目覚めたのかもしれない。それを確かめるために県立S高のグランドを借りて走り、その承認に私がなったのである。
 「そうか、そこまで決心したのなら、もう言うことはない。自分の未来だ。自分で手に入れろ。芸の道で自分を表現してみろ。目一杯の自分をな」と、励ました。
 「はい。決心した以上、負けません」
 この言葉に中に、自分の未来を見詰めたものが窺
(うかが)えた。
 「一回限りの人生。自分の思う通りの遣ってみるがいい」
 「わたし、頑張ります」
 それを固く盟
(ちか)うようなことを言った。その盟のなかに、これまで無関心であった「何か」に気付いたのだろう。
 人は他人にも無関心だが、自分にも無関心である。無関心に過ごすことが、それなりに幸福であると思い込んでいる人も、世の中には少なくない。
 無関心で過ごす幸福……。そういう幸福は、本来幸福と呼べないものである。それは自覚されない幸福であるからだ。いずみはこれまで、自分に対しても理解せぬ人生を送って来たのである。その無理解に、自分なりに思考し始めた。それは、自分の足で前に踏み出す思考であった。
 これから、自分はどうすればよいのか……。いずみの行き着いた結論であろう。

 「姉さん。いずみ、恃
(たの)んだよ。いずみだったら、遣(や)れるかもしれない。一緒にグランドを走っていて、そう感じたんだ。必ず、遣るだろう……」
 いずみは、もともと度胸のいい娘である。怯
(ひる)んだり、臆(おく)するところがない。困難にも立ち向かうだろう。私は、そう検(み)たのである。
 「健太郎、わかったわ。今度は、あんたが確
(しっか)り遣る番ね。これだけの生徒を預かるのですもの、責任は重大よ。これからが正念場だからね」と、姉の叱咤半分の激励が飛んだ。
 「ああ、そう思っている……」
 私は覚悟した。
 これから旅立つ者は、いずみを除く三十三名である。その三十三名の後ろには親がいる。もし、万一のことがあれば申し開きできない。その覚悟である。
 「先生。ご武運を……」
 「ああ、心得た。いずみも頑張れ」
 「はい!」毅然とした返事だった。
 私は思った。これからこの娘、いったいどうなるのだろうか?と……。そう思うと、いずみに対する懸念が消えたわけでない。学校を辞めたとしても、小巻奈々子を除く、牧野紗江香や倉橋伸江、それに石田美幸、大石雪乃らのA組の残党がいる。引き戻される可能性もある。こういう腐れ縁を断ち切って、彼女は前進しなければならないのである。厄介な構図を抱えている。

 「いずみは、どうしても修学旅行に行かないのだな」
 「わたし、行けません。もし、みんなと行ったら、もう帰れなくなります。みんなと何処までも一緒に行動してしまいます。いま踏ん切りをつけないと……」
 「そうか」
 「わたしは、わたしの道を見付けたのです。以前はA組に居て、少しばか自惚れていました。
 でも、わたし、真帆さんや初音さんのように、理数系得意じゃないし、それを無理して進むと、わたしの希望する道ではないと思うんです。わたしの道は、そこにはありません。わたしはわたしの道を行きます。だから、わたしの道は此処に留まることです」
 固い決心だった。
 いずみは苦渋の決断の後、ここまで苦しんで、いまの答えを出したのだ。さぞ、辛かったであろう。
 人間は窮して、苦しんだ後に本性が顕われるという。これは有頂天に舞い上がったときも同じだろう。
 かつて記録保持者として、その栄光に舞い上がり、天狗になった時期も、いずみにはあったであろう。
 だが、ドン底に一度顛落
(てんらく)して、再び浮上する意志を見せた。
 「そこまで苦しんで、自分の道を見付けたなら、もう何もいうことはない」
 「そして、此処で定時制の授業を一週間受けて気付いたことがあったんです。定時制は昼間働いて、夜学んだんですが、わたしの場合は、出来れば昼間学校に行って、夜仕事をする……。そういう道が進めないかと思ったんです」
 「なるほど」
 「現に、政子先生や文香先生は、この地でそれを遣って来たんです。わたしも、この地で遣りたいんです。
 だがら此処で頑張って、まず高校卒業資格を取る。そして、これはわたしの高望みなんですが、わたしも県立女子大へと進みたいんです。実際に、それを実践した人が、二人もいるんですもの」
 こういわれると、「此処に残る」という意味に説得力があった。私は、そういうことだったのかと思った。
 いずみはもともと度胸のいい娘である。臆することがない。
 人間は、口約束なら盟
(ちかい)を疎(おろそ)かにして、利のある方に転び、また楽な方に方に傾いていく生き物である。大半の人間の正体である。
 しかし、いずみには誠烈
(せいれつ)な何かがあって、情熱のようなものが、ひしひしと伝わってきた。意気込みだろうか。それだけに、滅多に明かさないのだが、彼女は窈靄(ようあい)でありながら、目の奥に必死さが出ていた。苦渋の選択が窺われていた。

 「さて、おれを松本精華女学院高校の教師として、おまえは何点、くれる?」
 「初音さんが言ってました。先生には100点満点中、200点ですって……。わたしは300点、あげたいと思います。どうでしょうか?」といった貌には、わずかであるが愉しさとユーモアが籠
(こも)っていた。
 「ちと、計算が間違っているのではないか」
 「どこかでしょう?」
 「遣り過ぎだ、おれには相応しくない。分相応でない。採点も間違っては、人生を殆
(あや)うくする。清廉でもないし、真面目でもない。マイナス点が相応しい。世の中は引き算方式で成り立っている。決して足し算ではない。人間はなあ、誰でも、殆どが、自分より他人を下に置きたいんだ。自分より上に居る人間を怨(うら)む構造になっている。したがって、相応しくない人間に高得点をつけると、却(かえ)って怨まれる」
 「?…………」
 私は此処に連れてきた生徒を、女として見ていない。人間として看
(み)ているのだ。
 人間としてみる以上、その見解に性別はない。男も女のないのである。
 「だが、おれは、人を足し算で評価したい」
 「では、私は割り算を排して、掛け算でいきます。百点満点に3を掛ければ、300点になります。だから先生には、300点をあげます」
 「だがなァ、この300点も、おれがヘマをして、ゼロを掛けられたら、300点は忽
(たちま)ち、0点になってしまう。幾ら掛け算でも、掛ける数字によっては、無に戻るのだ。だから、おれは一挙に得点を上げる掛け算ではしない。地道に少しずつ、徳を積み上げる足し算でいきたい。
 人生算盤……。引き算と割り算は排して、何事も長所を評価して、足し算で生きたいものだ」
 「分かり易くて、いい考え方ですね。では、わたしもこれから足し算で、少しずつ徳を積んでいきます」
 いずみは、それなりに納得したらしい。

 このとき私は、石山いずみを女として見ていない。人間として看
ている。
 人間を看れば、嫌悪が起こらない。嫌悪はやがて恋愛感情に変貌する。そうなると、生徒を検
(み)る公平が崩れ、依怙贔屓(えこ‐ひいき)から不平不満が生まれ、怨みを買われることになる。
 これまで私が、せっかく築いた「伍」の組織は機能しなくなるだろう。生徒は同格視したいものだ。同格視できなければ、これまで互いに結び合っていた「信」が崩れて、バラバラになる。この分裂が怕
(こわ)いのである。人間の心は一部分裂してしまうと、もう元には復元できない。人間の心の脆(もろ)さだ。
 それに、教師が慎むべきは、生徒に対する恋愛感情である。この陥穽
(かんせい)に嵌まって顛落(てんらく)していく教師もいる。学校は恋愛の場ではなく、学問の場である。これを間違う教師は多い。
 おそらく、いつの頃からかPTA会室が「開かずの間
(ま)」になったのは、恋愛ごっこが元凶だったかもしれない。もしかすると、いずみは恋愛ごっこの相手として、もと体育教師の十勝俊介(とかち‐しゅんすけ)のターゲットにされたのだろう。彼女の見栄えのいい、美形体躯が狙われたのだろう。
 恋愛感情は学年が低学年だと、男女の差は殆どないが、子供が初恋に目覚める頃から、男女の恋愛感情は濃厚になって行く。男女はそれぞれに意識し始める。

 「おれは、いずみの才を評価したい。それも引き算ではなく、足し算で、である。足し算で評価すれば、おまえのいいところしか見えない。悪いところを見なくて済む。それだけ、おれの精神的衛生にもいい」
 「では、わたしのいいところ、点検しましたか」
 「ああ、したとも。おまえは、どこがいいかといえば、まず足の速いところがいい。次に、いずみは心根が優しく道理を弁えていて、思い切りのよさは私より鮮やかだ。この鮮やかな、思い切りの良さが、芸道に入ることを決心させたのかもしれない。今が旬
(しゅん)だろう。いい決断だったと思う。なお、退学届はあとでおれの方に送ってもらいたい。おれが時機(とき)をみて、校長に提出する」
 「それに、先生……」
 「なんだ?」
 「父が、先生から200万円の手形、借りてますよね……。父は街金を廃業するんですって。銀行と街金がまったく違っていることを悟ったようです」
 「そうか、いいことだ。才能がなければ、その場から速やかに去る。これが人生を誤らない第一歩だ。人間は引き際が肝腎だ。退くことを知らなければ深みに嵌まって行く。そもそも人間は、動物の中でも、嘘をつく動物だ。それが分かっただけでも、200万円の手形を貸した価値はある」
 「えッ?……」
 「人間は嘘をつく動物だということを、おまえの父親は悟ったのだろうよ」
 私がいずみに力説したかったことは、「人間は嘘をつく動物」であるということだ。その最たるものが、経済的不自由に瀕
(ひん)したときである。
 人間、金に困れば必ず嘘をつく。万人に言えることである。
 いずみは自分の父親の、これから五ヵ月先のことを懸念していたのかもしれない。

 ふつう街金は、法外な暴利を貪る高利貸しと思われている。
 しかし、高利貸しの上前をはねるのが、大衆ならびに庶民と言う自称「底辺」を売物にする連中だ。
 この連中は金を借りにくるときは平身低頭し、土下座をするばかりの軽い盟
(ちかい)で、自分が真面目で、律儀で正直であることを自己宣伝する。
 ところが正体は違う。金を借りるときだけに頭を下げるだけで、返済する段となると、返済を渋るし、期限を守らない。人間は窮すると、小人
(しょうじん)ぶりの正体が顕われる。
 つまり、人間は経済的不自由に見舞われると、間違いなく嘘をつくのだ。そのため期限が延び延びになって高利貸しを攻める。悪徳と名指しする。特に自らを善人と称し、正直で真面目と自己宣伝する人間こそ、支払日の期限を守らない。挙げ句のたてに、貸し付けた方を罵り、悪徳と指弾する。

 私は実際に、県知事認定の貸金業を遣ってみた。自らも街金を遣って、真面目で正直で、自称嘘をつかないという人間の正体を観た。確と検
(み)た。その正体は真面目で正直とは、まったく程遠いものだった。
 その典型が、自分の貰う給料の枠内で生活できない輩であり、ローンなどの多重債務を重ね、ローン支払いに困って、別の何処から借り、単に支払いのための支払いだった。こういう手合いは、真面目でもなく正直でもなく、ただの浪費家に過ぎなかった。金銭を自分で管理できないのである。

 人間が経済的困窮に陥ると、なんかやかと理由をつけて嘘をつく。そういう人間をゴマンと見てきた。
 特に不断から、真面目で正直というのは要注意だ。この種に嘘つきは多い。
 その嘘つきに、いずみの父親は思い知らされ、人間は口で言うほど真面目で正直ではないことを感得したのだろう。確かに、銀行マン上がりのいずみの父親は、高利貸しに向かない人であった。取り立てのために、鬼になれないのである。貸金業で言う「追い込み」と「型に嵌
(は)める」ことが出来ないのである。
 高利貸しは、自分の給料や収入以上の生活をしている嘘つきに金を貸すのである。この取り立てが出来なければ街金を遣る才能はない。その自らの凡庸に気付いただけでも、いずみの父親は黒字倒産から免れて救われよう。貸金額には所得税が掛かるからである。取り立てが出来ずに、翌年度に持ち越せば、これに所得税が掛かる。この多額な所得税に苦悩し、長らく無駄な税金を払ってきたのだろう。もと銀行マンには街金は不向きなのである。そして、いずみの父親は『人間学』の大事に、いま気付いた……。そういうことだろうか。

 「そこで、もう暫
(しばら)く俟って頂きたいのです」
 「おれの期限は半年後だ。今ではない。まだ五ヵ月以上もある。急がないでいい」
 「それでも、……過ぎても、俟って頂けますか」
 「俟ってもいいが、おれは礼がなければ容赦しない」
 「わかっています」
 「言っておくがな。おまえ、親の借金を苦にして芸妓になろうとするのではあるまいな。
 もし、そうなら、おれは赦さないし、姉も入門を断ろう。芸道は誇り高き職業だ。精進した己の芸を売ってメシを喰っている。酌婦や娼婦でないんだぞ。更にだ。芸道は、宴会芸ではないぞ」
 「はい、それは重々承知しております。わたしは、政子先生を、わたしの生涯の先生と決めたのです。そのことだけは信じてください」
 「よし、信じよう」
 「うれしい……」
 いずみの笑顔がいっそう清明を帯びた。彼女は確かに「自分を信じた」のである。そして「他人
(ひと)も信じた」のである。
 人生には、一度や二度「もっと自分を信じ、他人を信ずるべきだった」というのがある筈だ。その意味では彼女はいい決断をしたと言えよう。
 「それにだ。他に言っておきたことをがある。味方は絶対に裏切るな。いいか、味方は『信』で。心が繋がっている。おまえも、おれの味方であるし、E組も、お前の味方であり、E組も、おまえの味方をする。
 『信』で、おまえを守り通す。必ず守る。敵は欺いてもいいが、味方にだけは嘘をつくな」
 「勿論です。分かっています。信がなければ、わたしの名誉は立ち行きません」
 「そこまで分かっていれば、もう言うことはない」
 いずみは短期間によく成長したといえた。改心が早かったと言ってもいいだろう。
 ふつう、一番の味方を早々と啖
(く)って、自分の「切り札」をなくしていく者が多い。
 例えば、一番の味方である親兄弟や友人から金を借りて、この金を、銀行やローンなどに当てて、世間体を繕
(つくろ)う類(たぐい)である。
 この類は、自分の「切り札」を早々と遣ってしまったことに気付かない。「切り札」は出来るだけ最後までとっておいて、世間の強そうな、銀行やローン会社と戦うべきなのである。これが、当今では本末転倒になっている。斯
(か)くして「切り札」ばかりか、不義理で、人生の最大の味方まで失うのである。


 ─────そういうとき、奈々子が駆け寄ってきた。
 「話つきましたか」
 「なんの話だ?」
 「いずみとの話です。学校を辞めるといっていた話です」
 「ああ、ついたよ。いずみは自分の生涯を賭
(か)けて、芸の道に入るそうだ」
 「そう……」と、一瞬銷沈した相槌
(あいづち)を打った。貌に翳りがさした。
 「奈々子。いずみを信じてやれ。深く信じてやれ」
 「はい。そこまで決断したのであれば……」急に彼女の貌に清明が顕われた。自分でも、いずみの決断を納得したのだろう。
 「奈々子。おれは、いずみの走りっぷりを看
(み)て分かったことがあった。かつてより、走行威力は落ちたとは言え、そこには信念があった。その信念で、いずみは遣り通すだろう」
 「わたしも、それは分かります」
 「では、いずみの旅たちを祝ってやることだ。おれたちも、今日から旅に発つ」
 「はい」
 「おまえ。A組やめて、おれのE組に来ないか」
 「いやです」と、きっぱりと断った。
 「どうしてだ?A組から出ると、特待を取り消されるからか」
 「いいえ。わたしがA組やめたら、だれがクラスの内情を探るのです。わたしは、クラスはA組ですが、心は既に、先生のE組に属しています」
 つまり、奈々子は内情を探るためにA組に残るのだ。裏情報の提供者になるというのである。牧野紗江香、倉橋伸江、それに石田美幸、大石雪乃らが、A組には残党としているからである。
 「そうか、そこまで考えていたか」
 「わたしね、あまり先生に近付きたくないんです。近付くと、先生の毒に痺
(しび)れそうになるから」
 「さようか」私を敬遠していることに少し呆れた。
 「わたし、下手物趣味なんです」と、ずばり切り返して来た。
 「単純明快だな」
 「わたし、毒に当たり易い体質なんです」
 「まるで、おれは河豚の毒だな」
 「違いますか?……」と、心を窺うように訊いた。
 「否定しない。確かに河豚の毒を、おれは生まれながらに背負い込んでいるらしい」
 それは、私が山師
(さんし)であることだ。山の中を歩き回り、金鉱を掘り当てようとする山師だからだ。
 しかし山師は時に、河豚の毒に映るようだ。
 「でもね、わたし嫌いじゃないのよ。毒に触れてみたいと思うこともあるんです」と、些か好奇心を匂わせた口振りでいった。

 「わたしも……。わたしが先生に蹤
(つ)いて来たのは、毒に誑(たぶら)かされたから。その毒って、心地よく痺れさせる魔力を持っています。いつまでも痺れていたいような気持ちになって来るんです」と、いずみまで追い打ちを掛けて来た。
 この心理は何だろう。二人の少女の心境は、何だろう……。
 幾ら毒に痺れようと、そこに私は恋愛感情を持ち込まない。個々人の才を磨くには、教師は、恋愛小説物のような青い春を演じてはならない。色恋沙汰を拭
(ぬぐ)い棄(す)てたところに、人間の正体が見えて来るものであり、もし彼女たちを女と検(み)た場合、これまで人間として見えていたものが曇る。
 「わたし。先生が、以前『パンを捨てた娘』に見えるっていいましたよね。いまもそう見えますか」
 奈々子は、かつて私に指摘されたことを、気に病んでいるようだった。

 「いまは祓
(はら)われた。もう、見えない。おれが修祓したから、安心せい」
 「ほんとうですね」ほのかに嬉笑
(きしょう)が浮んだ。
 「先生の修祓之術
(しゅうばつ‐の‐じゅつ)、わたし、信じます」
 「わたしも、短い間でしたが、先生と、こうして居れたことを誇りに思います。必ず、この道で芸を立ててみます。一年後か、二年後、先生は嬉野にいらっしゃることがあれば、是非、わたしを指名してください」
 「気の長い話だ」
 「そうですか。この道で芸を立てるには、二、三年は懸かると言われましたが……」
 「おれは、そんなに俟てないよ。だいたいだなァ、隔月おきの定期便で嬉野には来ているんだ。
 しかしなァ、この頃、おれの悪評が一人歩きして、何処の茶屋も入れてくれないんだ」
 「困ったものですねェ」と、呆れたように言った。
 「そう、困ったものだ。おれの病気は重い。学校から薄給を貰うだろ。それを持って嬉野に出掛ける。
 すると借金取りが待ち受けていて、その日のうちに殆ど回収されてしまう。そこで、姉の家の母屋に戻ってきて独り酒……。この哀れ、分かるか。ほんとうに辛い……」
 「お察し申し上げます」
 「まるで、他人事だなァ……」
 母屋に戻ってきて独り酒……。だが、対面しなければならぬものがあるから、これも辛い。
 過ぎた、遠い日のことである。記憶は時短とともに消えかかるが、この記憶だけは消えることはない。
 私の周りには亡霊が渦巻いているからだ。魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)の類(たぐい)であれば、百鬼夜行で済まされるが、これが人間の霊であるから苦悶(くもん)するのである。
 「独り酒……。寂しいですね」
 「そうだ、哭
(な)いて寂しい閑古鳥(かんこどり)だ」
 私は歌かなにかにあった台詞を吐露していた。そもそも「ひとり」とは、そういうものであるからだ。
 「哀愁が漂っていますねェ……」
 この一言は、いずみの率直な感想だろう。
 ひとより一歩先を歩む者は、不可視世界の中では賞賛されるべき要素を持っているが、私のような数歩先の霧の中を突っ走る人間は、往々にして周囲の非難と無理解に苛
(さいな)まされる。これは私に限らず、異論を唱えて先をいく者はそういうものであろう。


 ─────周囲は出発前の慌ただしさがあった。それぞれに想い出を交わしながら、見送る人、見送られる人の会話が弾んでいた。
 そこに佐藤みどりが遣って来た。
 「先生。新海先生から、お電話です」
 「なに、ポン海から……」
 そもそも、この御仁こそ、この場に早々と姿を顕さねばならないのである。だいたい何を愚図
(ぐず)垂れているのだ。遅いことに、些か腹を立てた。
 直ぐに、電話口に疾
(は)った。
 私宛の主の用件は、修学旅行のためにチャーターしたバスの到着時間が遅れると言うのである。
 『西肥ツーリスト』の社長でもある新海幸吉氏は、バスの到着時間が遅れるので、しばらく俟
(ま)てということだった。だが、この「しばらく」が曲者だった。時間を切っていないために、いつまでか分からないのである。俟てと言われれば待つしかない。ただ、その待ち時間である。これをどう読むかである。
 暫
(しばら)くを30分と検(み)るか、一時間と検るか。あるいは二時間、三時間……。そういう開きは計算に入れておかねばなるまい。俟てと言われれば、待つしかない。
 この良き日の門出の第一日目に、いきなり躓
(つまず)いたような錯覚を覚えた。

 「銷沈
(しょうちん)するでない」
 電話の主は意外なことを言った。
 そのうえ、玄関前には送る人と送られる人で、出発前の慌ただしさがあったのだが、その賑わいも、俟たされることで、腰を折られてしまった感じがあった。
 「どういうことでしょう?」
 俟てと言われたことに不審を抱いて訊いてみたのである。
 「わしは準備万端で、第一歩を進めたい。洋々たる前途を提供したい。うまくいえぬが、そういうことだ。
 ちと、俟って頂きたい」
 「?…………」私には訳が分からない。
 ポン海がなんか難しいことを言ったぞ……。私の感想である。そして、洋々たる前途とは何だろう。
 「策はある。案じることはない」
 「はあ?……」
 何のことか分からない。だが、策はあると言った。策とは何だろう。
 策を用いるのであるから、当然相手があってのことである。では、その相手とな誰か。
 俟てと言う……。この「しばらく」という時間である。どういう時間だろう。
 私はこれを「間
(ま)」と採(と)った。
 「間」とは、相手がいるものとして、外し、去
(い)なし、躱(かわ)す何かの動きを、初日そうそう仕組んでいるのだろうか。そうであれば、おもしろい。
 だが、時間に遅れ、出発時間を送らせることが、はたして「間」といえるか。そこを読む必要があった。

 間を読み、タイミングを計っている……。そう採
(と)ればおもしろい。何かを去なしている。そう読むことも出来る。ここは我慢か。
 私は人の志と運命を考えてみた。志は掲げていても、何も起こらない。動かねば起こらない。また、志が高ければ高いほど、難儀に多く遭遇する。問題が殖える。問題は多くの場合、不運を伴っている。その狭間にのたうち回らねばならなくなる。その中でのたうち回るだけなら未
(ま)だしも、死にかけることもある。
 「慎重を期さねばな」
 こういった言葉の裏には、何かに勘付いている事象があるのだろうか。
 「用心するということでしょうか」
 「この慎重さが、おもわぬ奇功を齎すこともある」
 結局、電話の主は「しばらく俟たれよ」で終わった。
 なにかのトラブルか、予期せぬアクシデントである。これをどう読むか……。凶と採るか、吉と採るか。祓えば、吉となろう。果報は寝てまてか……。おもしといと思う。俟つことも大事だし、時機
(とき)を去なすことも何かの意味があろう。
 電話はそこで終わった。

 「おい。みんな聴いてくれ。バスの到着が遅れるそうだ。まず、この炎天下に立っていても仕方ない。このままでは日射病でやられる。中に入って、俟とう」と、待ち時間と暫
(しば)しの退避を促した。
 日射病とは、夏の強い直射日光に長時間照らされた際に起こる熱中症の一種であり、頭痛・眩暈
(めまい)・意識障害・痙攣(けいれん)などを起こす。送る方も送られる方も炎天下に居たからである。とりあえず家屋の中に入るしかない。
 玄関に面したロビーである。生徒は、館内のソファーに散らばった。
 「健太郎さん。これ、生徒のみなさんに、私からの心ばかりの贈り物です」
 滝口さんだった。
 「贈り物?……」
 生徒たちへの贈り物として、滝口さんは万年筆を用意していた。
 「これは私からの贈り物です。これで人生の学んだことを綴
(つづ)ってください」

生徒たちが贈り物としてもらったブラッシュドメタルのカートリッジ・インク式のパーカーの万年筆。

 滝口さんからの贈り物は、パーカーの万年筆だった。
 「おい、これは支配人の滝口さんからの、みんなへの贈り物だ。ホームルーム議長はこれを配ってくれ」
 私は佐藤みどりを呼びつけていた。
 これを手にした生徒たちは、小さな細い長い箱を開け、目を丸くして「うわァ、すげェ〜」と聲
(こえ)をあげていた。そういう聲が、あちらこちらからもあがった。
 「ありがとうございます!」
 礼を言うことは、いまでは三年E組の常識になっていて、言葉だけでなく、満面の笑顔で返すことを知っていた。それも無理につくったものでなく、自然の笑顔だった。それだけに驚きが愛らしい。

 「出発前に、持ち物の確認をする」
 常に携帯すべき物は、紅白のハンカチとペンシルライトである。生徒たちの左胸のポケットには、いつもこの二つがあるのである。紅白のハンカチは遠方から伝達する手旗信号であり、ペンシルライトは光によるモールス送信をするためである。私は、この通信が必ず必要になってくると思っていた。
 更に携帯する荷物である。荷物は手に提げず、総てリュックサックに入れて背負う。両手を自由にするためである。手に持っていては両手が使えない。一種の護身術である。両手で抗
(あらがう)うということが護身の第一歩であるからだ。
 修学旅行に出掛ける生徒は、いずみを残して、三十三名にである。生徒たちを引率し、無事に連れ帰り、親許に戻すというのが私の使命である。事故や事件に巻き込まれてはならない。万一に場合、そういうものに遭遇すれば釈明の余地がない。親にとっては、子は子である。どういう言葉で謝罪しても償いようがない。
 そのためには烏合の衆を寄せ集めて引率していては、必ずアクシデントに遭遇する。それを極力最小にを抑えるには組織化し、機能化させる必要があった。「伍」である。「伍」を最小単位にして動かす。これが私の苦肉の策であった。
 いま二班から成り、各班ごとに頭・胴・尾の三つの部位からなる「伍」がある。この「伍」に細胞的機能を持たせる。更に三つの部位が一つの生命体としての動きを呈する。この有機的生命体が二つの班からなっている。互いに扶
(たす)け合う。常山の蛇勢である。
 基本には人生は人間同士の凭
(もた)れ合からなるという『人間学』に基づいているからである。

 私はこれから旅に出るにあたり、生命体としての機能に、各「伍」に通信、伝令、偵察、救護、調達、そして遊撃という任務を負わせた。
 通信担当は小型短波無線機を携帯し、異変を傍受するとともに送受信をし、危険は各「伍」に手旗信号かモールス信号で報せることを任とする。
 伝令は頭・胴・尾の三つの部位を緊密に繋ぐために連絡や報告をする任を負う。
 偵察は行動に先駆けて情報を蒐集
(しゅうしゅう)し、分析することを任とする。
 救護は万一に場合の事故による不慮の怪我、病気などに具
(そな)え医薬品を携帯し、また医務や看護を任とする。更に緊急の場合の病院の手配である。
 調達は物資の調達や食糧などの補給である。万一、これらがなければ現地での調達をするために行商までを任とする。いま有るものを物々交換で売り歩くのである。
 遊撃は交渉や、不逞
(ふてい)の輩(やから)が顕われれば、それらを惑乱することを任とする。
 斯くして綿密な策を施し、旅の最大目的である滞在した先で気候や風土、更に文化を生徒一人ひとりが感得することであった。ただ名所旧跡を素通りしていく旅行ではないのである。地元に馴染む旅である。

 「能
(よ)く訓練されていますね。驚きましたわ」
 こう、聲を掛けたのは喬華さんだった。彼女に言った「訓練」とはなんだろう。それは、生徒の立居振る舞いの動きか、お行儀の良さの躾を指すのだろうか。彼女も、また生徒たちを見送りに来ているのである。
 「はあ、生徒たちは自らの世界に青雲を掲げています。未来と対面しています。その未来は、人間社会での扶け合いです。人間社会は有機的生命体で、これが正常に機能して、この社会が運営されています」
 「なぜ、生徒たちの動きが斯くもいいのか、これでよく理解できました。もうあれから、九日くらい経つでしょうか。養父
(ちち)にアルバイトの生徒を売込みに来たとき、先生の売込みの口上もさることながら、二人の生徒を伴っていましたね。石山さんと小巻さん。彼女たちに『博多にわか』をやらせたでしょ?」
 「さあ、どうでしたかなァ」と、
《記憶にございません》と逃げきろうとしたが、そこを喬華さんが、鋭く切り返した。
 「あれ、結局、岩崎先生が手駒を巧く遣いましたのね」といって、私の貌を鋭く睨んだ。
 「はあァ……。読んでおりましたか」
 「策士でございますのね。感心させられたことは、ここまで三十四名を、よく訓練していることに見事というより、驚愕を覚えますわ」
 まるで喬華さんは、私を越後獅子の親方のように言うのだった。
 「それは、私が仕組んだというより、生徒たちが青雲の意味を理解してくれたからです」
 「その青雲とは?……」
 「青雲には意味は二つあります。一つは自らの名声を高位の主に認めてもらい、例えば杜甫
(とほ)のように科挙に及第せず、優れた高貴な人物について引き上げて貰う方法と、もう一つは高き志を掲げて理想に向って執念を燃やす方法である。ただ違っているのは、前者は引き揚げてもらい社会的に高位につけば、その後、進退を潔くして離れた後は清濁(せいだく)の世から去り、早々と隠棲(いんせい)しますが、後者はいつまでも自分の理想を燃やし続けます。
 また、共通項は青雲にもえる者は、その想いを、軽々と安易に他人
(ひと)に喋りません。いつも裡(うち)に秘めて、懐で温めています」
 「それは多弁でないということでしょうか」
 「そうです。多弁には実がありません。弁論はしないものです。遊説を企てて人を惑乱しないものです。それだけに、志を掲げて人は裡に力をもっています。そして、滅多に明かしません」
 「いいご意見ですね。さすがに、ここまで生徒を引っ張って来れるわけですね。感心しましたわ」
 「私は、ただの山師ですよ。豚を煽てて樹に登らせるような……」
 「でも、お見事ですわ」
 「ここまではね……」

 そのときである。佐藤みどりが、この待ち時間に不満を申し立てた。
 「このままではダレます」と、苦情のようなことをいった。
 尤
(もっと)もなことである。こう俟(ま)たされては、確かにだれる。それが気の弛(ゆる)みになるのが怕い。集団には、こういう心理が働くのである。
 「ダレるなら、ダレろ。ダレるときは、今しかないぞ。これから先は緊張の連続だからな。人間は緊張ばかりしていては躰が持たん。緩急を付けことが大事だ」
 はたして、このようにいっても納得するか……。頭で納得しても、躰が納得しない。そのうえ暑い。そこで気分転換がいる。私の勘だが、「遅れる」とは分単位ではあるまい。時間単位であろう。へたをすると、二、三時間ということもある。
 「ねえ、先生。この場は、気分転換が必要なのではないでしょうか」
 「なんだと?……」
 「この近くに町営プールがあるんですって。みんな、そこに行きたがっているんです。どうでしょ。此処から
歩いて5、6分くらいのところです。新海先生の到着は、もっと遅いと思われます。30分でもいいですから、泳ぎに行っていいですか」
 みどりは懇々
(こんこん)と訴えた。
 担任としての私は、何で出発前に、プールに泳ぎに行かねばならないのか、理解に苦しむが、この年代の少女にはじっとしていることが苦痛のなのかもしれない。それに、なぜポン海が遅いと予測したのか。少女特有の勘であろうか。その勘から、何かを危惧
(きぐ)しているのであった。

 そこに幼顔の涼子までが迫った。
 「先生、いいでしょ。ねえ、いいでしょ」と、愛くるしく貌で迫った。近距離である。
 「おい、そこまで接近するな。貌が近い。拙
(まず)かろうが……」
 「えッ?」と、わざと戯
(おど)けたように恍(とぼ)けた。
 「あのなァ、ひとの目があるだろう。間違われるだろが。ひと三人分、開けろといっておろうが……」
 「どうしてですか」
 この小娘は人を困らせることを、一種の喜びにしている。
 「物解りの悪いやつじゃのう。おれが童女趣味の認定を受けてしまうだろう」
 周囲から嗤いが洩れた。今でいうロリコン愛好者である。小石涼子は背丈こそ、他の生徒と同じだが、なぜか幼く見える。だが、今は鵬
(おおとり)なる前の鶚(みさご)かもしれない。

 「先生!」
 突如、抗議の貌を向けた。
 「なんだ?」
 「わたしが、童女趣味の認定者ですって!」と尖
(とが)った。
 「いや、認定を受けるだけでなく、おれがその種の、右代表のように思われるのでないか」
 「その形容が異常者の領域……。まったく理解に苦しみます」
 「そう、目を三角にするな」
 「暑いんです!」と迫った。
 「それはよくわかる。だが暑いのは、おれの所為
(せい)ではない」
 「気象台の所為でもありません。だから、泳ぎに行きたいんです」
 「よくわかるが……」と渋ってみた。
 「通常観念に振り回されて、迷わないでください」と、涼子が真顔で迫った。そして、今にも泣き出しそうな哀泣
(あいきゅう)するポーズをするのだった。名演技である。
 彼女は、私を迷っていると検
(み)たのだろうか。確かに迷っていた。
 そこに吉川真帆が迫った。
 「先生は確かに河豚の毒です。時には痺れさせますが、時には、ご自分も痺れてではいかがでしょう。この暑さでは、みんなの心は和らぎません。気象台の涼子のお強請
(ねだ)りを聞き入れることが賢明でしょう」と、あたかも籌策(ちゅうさく)を囁(ささや)くようにいった。別に賢(さか)しらな気持ちなどないようだった。場の状況を読んでいるのである。これを無視出来ないだろう。あるいは彼女特有のインスピレーションだろうか。
 真帆は状況判断をし、彼女なりの時機
(とき)を読んでいるのである。参謀としての意見だろう。
 「呑めと言うか……」
 さて、どうするか……。大事の前の小事である。もしものことがあれば……。
 「ねェ、先生!」と真帆には、はっきりさせろという語気があった。
 「なんだ?」
 「わたしたち、ナイーブなんです。傷付き易いんです。先生のように野性で、心臓に毛が生えていません」
 なんとも妙な言い回しだった。
 「それではまるで、おれが野蛮人ではないか」
 「これを無視したり、一蹴すれば、先生のこれまでの信も声望も、一瞬にして禍殃
(かおう)が襲います。聞き入れるべきでしょう」
 はたして、この言い方は誇張だろうか。わたしへの決断を迫ったいるのである。

 この極端な暑さを凌
(しの)ぐには順当な意見だろう。
 彼女は三十四人の中の自分がひとりと考えているのだろう。全体があって、自分と言う個人があると考えているのだ。彼女の言葉には、名状し難い畏敬の力が籠
(こも)っていた。
 つまり、彼女に言いたかったことは、ここまでは、未
(ま)だ『信』が、生徒たちから支持されているが、これから先は、聞き入れなければ、どうなるか分からないという意味が含まれていた。真帆の意中を読むと、今後の興衰は、このクソ暑さを、どう和らげるかの選定されるという口振りであった。
 この暑さを凌ぐには、冷房の効いた室内に籠れば済むことだが、生徒たちの意識はそこにはなく、もうプールに行くことに飛んでいるのである。
 そこで、私は指一本を立てた。
 「なにをしているのです?」と、不審顔で真帆が訊き返した。
 「風に、お伺いを立てている。風角
(ふうかく)というんだ」
 「?…………」
 「しかし、風が吹かんなァ」
 「無風では、お伺いは立てられません。そこで、わたしが吹かせて、ご覧に入れましょう」と、横から涼子が割り込んだ。なんと切り返しの早いこと……。
 「なんだと?……」
 だが訊き返す間もなかった。異常接近して来たのである。この小悪魔は、私の耳許で「ふゥ〜」と遣ったのである。
 「吹いたでしょ」
 まんまと一杯食わされていた。

 「先生。いいですか、プールに行って?」と、今度はみどりが真顔で訊いた。
 その貌は、このままでは収拾がつきませんと訴えていた。
 「おまえまでもか」
 「信じてください。そして、先生の直観も……」
 彼女は群れに率い方を心得ていた。この暑さと、この遅れ……。なるほどと思う。
 確かに『孫子の兵法』にも適
(かな)っていた。時を読み、場を読んでいることの人の不思議であった。
 結局、いまから起こる光芒一閃
(こうぼう‐いっせん)といってよかった、
 それにしても出発前に、プールに泳ぎに往くと言う……。なんというエネルギーだろうか。
 さて、したがうか……。
 「誰が引率するのだ?」
 私は出発前に済ませておかねばならないことが未
(ま)だ残っているのである。
 「政子先生にでも……」
 「駄目だ、姉は駄目だ」
 「どうしてですか」
 「とにかく、姉は駄目なんだ」
 姉の背中には倶利迦羅紋々
(くりから‐もんもん)が入っている。姉は緋縮緬(ひぢりめん)なのである。
 公衆の面前で『昇り竜』を出されては、周囲の目を抉
(えぐ)ってしまう。それでは拙(まず)い……。
 そうかといって、私が引率する分けにはいかない。私にはこれから遣らねばならないことが山ほどあった。
 旅するルート案を、新海教授に提出し、コースを決定しなければならないからである。それにテーマは旅行ではなく旅である。両者は大きく意味が違っているからである。これからの旅が、生徒たちにとって前途洋々であって欲しいからだ。
 それに懸念もある。三十四人の生徒の安全である。
 所詮、小娘の集団である。いつなんどき、遠巻きにしている魍魎
(もうりょう)どもから、毒瘴(どくしょう)を吐きかけられるかわからない。私の危惧(きぐ)するところだった。

 「じゃァ、わたしくしが……」と奇特にも、喬華さんが名乗りを上げてくれた。
 そういった彼女には、眼光に微妙な強さがあった。彼女自身、この暑さを読み、生徒に心理を読んでいるのである。
 「喬華先生。お願い出来るんですか」と、みどりが驚いたように訊いた
 「ええ」
 「みんな水着は持っているんだろな」
 「持っています。いつでも何処でも泳げるように……。それに露出の少ないスクール水着です」
 わざわざ「スクール水着」と註釈を言えるところなどは、三十四人の生徒がプールサイドにいるオヤジどもの下衆な視線に曝
(さら)されるのを予想してのことだろう。彼女は目立たないことを主眼に置いていると思われた。そして、姉の許に残ると言った石山いずみも、三十四人の中の一人として行動を供にしているのであった。出発するまでは、私が受け持っているのである。彼女も、みんなと最後の行動を同じくしたいのだろう。

 昭和四十年代半ばといえば、日本は平和ボケの只中にあって、安全と水はタダと思い込まれ始めた時代、日本人は完全に弱肉強食を忘れ、同胞同士が共食いをすることを何とも思わなくなり、日本が急激に変化した時期であった。国全体が甘っちょろくなり、国民の意識は曖昧になり、これを進歩的と称し、一国平和主義の中に埋もれていく世の中に在
(あ)って、ホームリーム議長の佐藤みどり発言は賢明と言えた。
 つまり、彼女は自他を欺く意味で、生徒全員の暑さに対する不満と、遅れて俟たされる時間への双方の不満を、やんわりと和らげたことになる。然も、それでいて目立たないという考慮をしていたのである。

 「なんという手回しの良さ」
 「先生はいつもいっているじゃありませんか、備えよ常にと」
 私が少年時代から聴いていたボーイスカウトのスローガンを掲げた。人間は確かに、何かに対して備えていなければならない。
 「では、一時間だ」
 一時間あれば、生徒たちの気分転換は出来るだろう。担任は生徒たちの心理を、時と場合に応じて理解しておかねばならないのである。
 こうして、ダレ気味の生徒たちを、喬華さんが引率することになった。彼女も、生徒の心理を理解したのだろうか。
 しかし、不思議なことにも気付いた。此処には三十四人の生徒がいる。今日のこの日、誰ひとりとして、月に一度の“日の丸”日に当っていないのだろうか。ふつう体育の授業には、一人か二人の日の丸見学がいる。観察すれば、そういうことになる。
 斯
(か)くして生徒は、喬華さんに引率されて、炎天下の中、プールへと行った。なんという余剰エネルギーだろう。驚愕(きょうがく)する以外なかった。そして、不思議なことに気付いた。
 では、この驚愕するエネルギーの源泉は何か。
 はたして体力だろうか。否、違う。彼女たちの体質が変わってしまったのである。頑張りの利く体質に変わってしまったとである。
 私が最初、三年E組の南瓜畑を検
(み)たとき、どれもこれもちぐはぐだった。粒揃いでなかった。勿論学力にもばらつきがあり、学力面ではふつう以下だった。むしろ痴呆に近かったかもの知れない。そして、発育年齢以上に発育がいい生徒。あるいは遅れている生徒。あるいはデブも居たし、痩せも居た。それが私の赴任時の五月から三ヵ月以上も経ったとき、殆どが同じような粒揃いになっていたのである。少女特有の復元力と言うべきだろうか。
 本来の中庸
(ちゅうよう)に復元しているのである。十七、八歳の年齢である。
 彼女たちは、もとに復元する力も旺盛であったようだ。体質がすっかり変わってしまっているのである。
 デブも居ないし、痩せも居ない。かつての南瓜畑は、まるで魔法に出も掛かったように、みんながみんな中庸の体型になっていたのである。更にこれに、ある種の教養が上乗せされた。この二つが揃って、以前の南瓜畑のままではない。変異と言うべきか。
 それに些かの教養と知性が身に付いた分だけ、下級層で遣らかしている買食いや歩きながら物を食べると言う以前の習慣がなくなり、あたかもお行儀が良くなったと見紛
(み‐まご)うばかりだった。

 私は猫被りのお行儀のよいことはあまり好まないがが、人間は一時期でも同一環境の中で生活をすると、体調にも体質のも変化が顕われてくるようだ。その顕著な例が軍隊だろう。
 これは何も男子だけでなく、婦女子にも言えるようだ。同一環境に居て、寝食を共にする環境はこれまでの悪習慣を一掃する現実があるようだ。それに十七、八歳という年齢は、環境の変化に応じ易い年齢であるようだ。この年齢期に肉体的精神的刺戟を加えると、人間は変化が早いということである。そして、それは均一に起こることであった。
 だが、この年齢期を逃し、おばさん年齢では、こうも著しい変化は起こらなかったであろう。
 鉄は熱いうちに打てとは、このことだろう。適切な時を逃がしては鍛錬する機会を喪
(うし)うのである。
 更に特記すべきは、こういう年齢層で構成された集団には一種独特の特異なエネルギーが生まれるということである。そのエネルギーが、いま特異な方向に向けて動き始めていた。


 ─────プールへ出掛けた後のことである。
 石山いずみを姉の許
(もと)に置くとして、気になることがあった。
 「姉さん。いずみを恃
(たの)んだよ」
 「分かったわ。あんたも気を付けてね」
 「何か感じるのか」
 「ええ。だから新海先生が、巧妙に去
(いな)なしてくれるわ」姉は何かを読んでいた。
 「では、始まっているのか」
 「そう。あんたが、此処に来たときから……」おそらく女の勘だろう。
 「女には神が憑
(つ)き易いの」
 「なるほど」
 姉は勘が働くだけでなく、少なからず異能をもっていた。
 「杯中の蛇影に怯
(おび)えていては、枕を高くして寝られないでしょ」
 「そうか……。そうだよな」
 「だけど大変ね」
 「なにが?」
 「これだけの生徒を」
 「教えられことも多い。それにいい気を貰っている。信を尽くせば信で返してくる。いい構図だと思っている。こういのは一生に一度有るか無いかだ。好運に恵まれたと言っていい」
 私がこう吐露したのは一筋縄ではいかなかったということが言いたかったのである。
 「それは、あんたのカリスマが、そうさせたのね」
 「そうかなァ」
 「気付いてないの?」
 「どうだろ。おれは山師だからな」
 「だから、金鉱を掘り当てた。きっとそうね。こういうの、生に一度有るか無いかということかしら」
 「ある意味で、女子高だったからよかったのかもしれない。男子高や男女共学では、こうは守備よくいかなかっただろう。むしろ、おれにとっては禍
(わざわい)となっただろう」
 このとき、あることを懸念した。

 特に高校の場合、男女共学は、この恋愛感情が至る所で花咲き、健全運営を壊す要因になっている。
 歴史的に検
(み)ても、この顕著なる感情が渦巻いたのが、パルチザンの非正規軍の展開の仕方であった。
 この遊撃隊を自称する労働者や農民からなる混成集団は、また男女の性別をなくした組織であったが、その組織でも、軍隊の中に恋愛が生まれ、男女が抱き合った形で、ドイツ軍に撃ち殺されている。軍律が欠如していたからである。これは第二時世界単線中のフランスにおけるレジスタンス運動にも、男女の混成部隊が恋愛感情によって、ドイツ軍の狙撃兵から男女共々、頭を狙撃して一命を落すという死に方をしている。
 そういう死に方は確かに哀れだろうが、これは特に底辺の兵士にとっては、こうした状況下で、恋愛がいかに危険か、克明に教えてくれる教訓である。
 恋愛遊戯における男女の抱き合ったままの形は、人間の動作の中で最も無防備な姿と言えよう。この無防備に続くものとして、食事をしている時および、大小便の排便排尿の時であろう。

 私は歴史から、この事を学生時代から知っていた。
 当時は18歳で道場を開き、門弟も百人近く抱えていたから、特に警戒したのは道場生同士の男女の恋愛であった。恋愛遊戯が道場生間に混じると、健全運営が削がれ、指導する意図が伝わり辛くなる。
 また、私自身、18歳という年齢は多感な時期であり、当然、男である以上、いい女には眼が行く。これが怕いのである。
 つまり私自身、当時失敗したのである。
 だが、この失敗が四年後の教師時代に活かされた。22歳のときである。
 そして救われたことは、私が育った子供のときの環境が女の中であり、「いい女」が、どういう種属に属すかよく研究済みだった。尻軽女には手を出さなかったが、それでも転ける時機
(とき)がある。
 この痛い経験を基に、私は相手が小娘でも、女として見らず、人間として看たのである。そして、個々人にはそれぞれに異彩を放つ才能があり、その才能を伸ばし、評価することが教師の使命であった。
 私は少なくなくとも、彼女たちと接した期間、好悪を排し、恋愛感情を排し、どこまでも人間として看做したのである。その格を尊んだのである。

 当今は、学校でも塾でも、教師は生徒を笑わせたり、得意芸のパフォーマンスをやらかして、人気を集めるその手の教師業
(ぎょう)の人がいるが、こういうのは生徒を異性と看做し、意識しているからである。
 現代は、教師が聖職でない所以
(ゆえん)である。労働者である。
 だが、此処にも死角がある。
 特に教育現場では、色恋沙汰は御法度である。また、モテたいだけのパフォーマンスも必要でない。教師はエエカッコシーでは、職務が勤まらないのである。
 教師は聖職でないにしても、教育現場の職人でありたい。
 生徒を指導し、教えるという行為は、職人的でなければならない。職人は詳細に物事を進める。小事にも注目する。それが大事に向う。小事を蔑ろにしない。これこそが、職人の誇りであろう。それは、また日本人としての日本の教育の在
(あ)り方だと思うのである。


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